マグロの刺身と寡黙な男
その日、私は仕事でイヤなことがあった。
イヤなことをそのまま引きずって家に帰れば、そのイヤなことが自分の中で増幅される。それを、これまでの経験から知っていた。
だから、ちょっとだけ飲みに行ってから、家に帰ることにした。
「こんばんは~」
訪れたのは、最近よく飲みに行くようになった居酒屋である。自動扉ではない引き戸を、ガラガラと開けて入る。
「いらっしゃいませ~」
私の顔を覚えてくれている店員さんが笑顔で出迎えてくれた。
「すみません、今日は混んじゃってて。こちらのお席でもいいですか~?」
彼女が案内してくれたのは、カウンターに1つだけ残っていた端から2番目の席だった。
私の隣、一番端っこの席には、50代と思しき白髪交じりの男が座っている。時々、この店で見かける顔だった。スポーツマンという印象だが、いつも静かにひとりで飲んでいる。「寡黙」という言葉がぴったりで、なんとなく話しかけづらい感じの人だ。
だから、顔は見たことがあったけれど、話をしたことはない。
「この席ね。了解」
店員さんにそういうと、決して広くはないその席に座った。隣席の男は、スマホで何かの動画を見ながら、今日も静かに日本酒を飲んでいる。
「う~ん、何にしようかなぁ……」
この店のメニューは、その日の仕入れによって変わる。料理人の店主が、その日の朝に豊洲市場へ行って新鮮な魚を仕入れてくるのである。
「本日のおすすめ」と書かれたメニューの一番目は、本マグロの刺身だった。
「よし、今日はマグロで!」
「はい、マグロですね~。マグロ入りま~す」
店員さんが店主のいる厨房に向かってオーダーを通す。私はマグロの刺身を待つ間、お通しをつまみに生ビールを飲むことにした。
その日あったイヤなことも流してしまえといわんばかりに、冷えたグラスに注がれた黄金色の液体を、一気にノドに流し込む。
「ぷは~っ!」
「お疲れさまでした~。いつもおいしそうに飲みますよね~」
カウンター越しに、店員さんがニコニコしながらそう言った。
「お待たせしました~」
しばらくして、本マグロの刺身が運ばれてきた。桜のようなピンク色をした中トロと、バラのような色をした赤身。見ただけでおいしいことがわかるマグロである。
「きたきた。ありがとう。うん、これはやっぱり日本酒だねぇ」
お酒のメニューを見て、日本酒の銘柄を選ぶ。メニューの文字を読んだだけではわからなかったので、カウンターの向こう側にあるガラス扉の冷蔵庫を眺め、中に入っている日本酒のラベルを見て決めた。
すぐに店員さんが一升瓶を持ってきて、目の前で冷えた日本酒グラスに注いでくれた。
「さて。改めて、いただきます」
私はマグロの刺身を前に両手を合わせた後、箸を持って刺身をつまんだ。
まずは、美しいピンク色の中トロ。わさびをほんの少し刺身にのせて、醤油をちょん、とつける。そして、口の中へ。
なめらかな舌触りを感じつつ、味わう。思わず、口角が上がる。
「う~ん、うまいねぇ」
脂がのったマグロの味が舌に残っているうちに、日本酒をすする。
ああ、なんという幸せな時間……。
「うまそうに食べますね。至福の時間、ですかね」
「えっ?」と思った。その声は店員さんではなく、隣席にいるあの寡黙な男の声であった。
「ああ、はい。このマグロ、本当においしいんですよ」
「そうですよね。僕もさっき、食べました。おいしかった」
そういうと、男は少し微笑んだ。この人、笑うんだ、と思った。
それからは、何をしゃべったのか覚えていない。飲みながら話がはずみすぎて、酔っ払ってしまったのである。この店の料理がおいしいとか、この近くでお気に入りの店は他にあるかとか、そんな話だったような気がする。
「いや~、今日は楽しかった。じゃあ、また」
そういうと、寡黙だと思っていた男は、先に帰っていった。
「あのお客さんがあんなによくしゃべるの、初めて見ました」
男が帰った後、その席を片づけながら店員さんが言った。
「そうだよね。私もあんなにしゃべる人だとは思わなかった……」
「びんこさんが話しかけたんですか?」
「違うのよ。あちらから話しかけてきたの」
「ええ~っ?!そうなんですか~!びっくり!」
「そうよね。私もびっくり」
あの日、あの男がなぜ私に話しかけてきたのか。男のことを私以上に知っているはずの、店の誰もがわからなかった。
たまたま男の機嫌がよかったのか。それとも、何か別のきっかけがあったのか。
今度また、あの店であの男に会ったら、聞いてみようと思っている。
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