【神奈川のこと33】ボクの教会遍歴(雪ノ下、山手、大船、そして大阪市玉造)
今日はミサがあったが、箱根駅伝TV観戦のためスキップ。つまり、サボった。よってこれを書く。
カトリックの両親のもとに生まれた。母は父と結婚してから洗礼を受けた。父方の家系はその昔、聖公会であったはずだ。それが、祖母の妹の函館トラピスチヌ修道院入会により、戦後間もなく家族ごとカトリックに転会したと思われる。
生まれて約半年後の昭和45年(1970年)12月、鎌倉のカトリック雪ノ下教会で洗礼を授かった。代父(ゴッドファーザー)は伯父が務めてくれた。洗礼名はウィリアム。高曾祖父(ひいひいじいさん)が、英国系アイルランド人でその名をウィリアム・ヘンリー・ストーンと言った。その名をもらった。このウィリアムが、ウィル → ビル → ビリーとなり、あだ名が「びっくん」となったわけだ。
その後、物心ついた頃には、家族で横浜のカトリック山手教会に通った。当時、森永製菓のTVCMに出てくるエンゼルはボクの分身だと信じていた。
しかし、ミサは嫌いであった。
まず約一時間、じっとしていること自体、極めて困難だ。それから聖なる家族のような感じで見られることに、幼いながら嫌悪感を覚えた。だから、ミサ中は仏頂面を決め込んだ。
ミサの中に「平和のあいさつ」というのがある。参列している信者同士が握手したり、おじぎをし合う。ある時、参列していた英語のミサで、前の席にいた白人紳士が、平和のあいさつの時に、父と母、そして弟とはにこやかに握手をしたが、私には一瞥(いちべつ)しただけで握手をしなかった。出しかけた右手を引っ込めながら、ボクは恥ずかしい気持ちになった。仏頂面が招いた悲劇であった。
ただ、ミサ後は楽しいひと時が待っていた。家族で元町に繰り出し、ジャーマンベーカリーでランチ。いつもスパゲッティミートソースを注文した。そして、その後は、ユニオンでソフトクリームを買ってもらった。
昭和53年(1978年)、西鎌倉に引っ越すと、カトリック大船教会に通うようになる。両親は、ボクを日曜学校に入れようとしたが、頑なに拒んだ。日曜に勉強することがどうしても嫌だったからだ。弟は、素直に入った。その後、高校に入ると陸上競技に打ち込むようになり、教会とは疎遠になっていった。逆に弟は、教会の中高生会のリーダーを務めるなど、教会活動に深く関わっていた。
そして、大学生以降は、ほとんど教会に行かなくなった。結婚式の時だけは、洗礼を授かったカトリック雪ノ下教会にお願いし、挙げた。カミさんも二人の息子達にも洗礼は受けさせなかった。一時、相模原市に住んでいた頃に、隣町の東京都町田市にある教会に何度か子供たちを連れて行ったが、続かなかった。
転機が訪れたのは、平成24年(2012年)。大阪へ単身赴任となった。リーマンショックの尾をまだ引いていた時期でもあり、仕事の上では行き詰まりを感じていた。また、実母と大きなケンカをするなど、いら立ちはピークを迎えていた。そんな時、ふと「教会に行ってみようかな」と思い立った。
調べてみたら、カトリック玉造教会というのが最も近かったので、早速行ってみることにした。巨大なカテドラル、聖堂内には細川ガラシャの絵、実にやる気のなさそうな関西弁の日本人神父。「ちょっと場違いなところに来てしまったか...」というのが第一印象であった。しかし、しかしである、この日本人神父のお説教の面白いこと。ミサ中にあんなゲラゲラと笑ったのは初めてであった。「大阪はミサも面白い!」と帰り道にうなった。
それから東京に帰任するまでの約一年半、この玉造教会へ通った。ホームレスへのおにぎり配りの活動があったので参加した。ミサの中での聖書朗読のお役目も何度かいただいた。すっかり玉造教会の皆さんと打ち解け、大阪での最後のミサでは、サプライズであいさつまでさせてもらった。
信仰を取り戻したボクは、鎌倉に戻ってから、四半世紀ぶりに大船教会に通い始めた。そんな矢先の平成27年(2015年)、母が亡くなった。大船教会の皆さんは母の死を悲しみ、協力して葬儀を出してくれた。
平成28年(2016年)から3年間は、教会委員に選ばれて、大船教会の広報部長を務めた。毎月、教会報である「おとずれ」を発行したり、「信徒のための文集」の編集を手掛けた。
ざっと、これがボクの教会遍歴である。
信仰を取り戻すきっかけを与えてくれた、実にやる気のなさそうな日本人神父、ステファノ神林 宏和神父は令和元年(2019年)5月に帰天。信仰を押し付けることなく、「放蕩息子」のボクを、ただ寛容に受け入れてくれた方であった。
雪ノ下、山手、大船、そして玉造。どの教会もボクにとっては、かけがえのない場所である。