教育改革いいかげんやめないか
同じような教育をされてるから、同じようなことしか考えられない、特にスマホで情報得るとそういう方向に偏る。
IT技術による教育で得られる情報は、極めて画一的である。AIでパーソナライズと言ったとしても、データとして細分化されている傾向しかされない。例えば、20代前半、男性でこのようなことを調べ興味を持ったのであれば、アルゴリズム的にこんな物を好むだろう。と表示されていくだけである。
人とは異なることを少しは学ぶかもしれないが、概念をの枠組みは超えない。
高校生の制服を着崩し方のように、同じようにスカート丈を短くしたり、同じようにピアスを開けたりするだけだ。規則を破ると言っても同じ破り方だ。似たように奇抜なものの紹介はあったとしても、パラダイムシフトを促すようなものは見えない。(存在はしているが、見えない、見方を知らないのだ。馬の耳に何某である。)
学ぶことが同じだ。
だから、考えに違いが生まれない。
考えが違うものとの交流がなくなるため、創造性がなくなる。
(話がそれるが、ルッキズムに傾倒する若者が多いのは、創造性を作り出すためではないかと感じる。同じ身体、顔が一つとしてない個性。その個性を顕在化させることで、違いを知り、何かを想像しているのかもしれない。(思想の弱い者はそれすらも、整形で同質化しようとしているが。))
ただ、私が現在、希望をもっているのが、平方根の法則である。分子力学の話である。(私は門外漢である。)
すべての分子は重力に従っている。ただ、その分子の中で、平方根の数だけの分子が重力に逆らう分子がある。(10000であれば、100。)
人間社会にも、異質な人が一定数いる。人間社会も平方根の法則に従っているのではないかと感じる。この人たちが現在の閉塞感を破る人となるのではないかと感じる。
そこでこの異質な人を知覚するために、必要となるのが、さんざん繰り返している。
他を尊重することである。
この人の言ってることはわからないけど、なんかすごいなの力である。
なんだかよくわからないけど、ちょっと聞いてみるか。頭の片隅にでも置いておこう。
これが、多様性の姿勢でもある。
さて、現在の教育改革は、馬鹿の一つ覚えのように毎年されている。
改革され、先生たちはその整備に忙殺され、生徒たちの芽生えが始まる前に、踏みつぶされているように感じる。(周りに高校教諭の関係者が多いため、学ぶ内容が年々増えて(情報、歴史総合?)、統合されている様子を聞いている。)
教育っていうのは、会社と違ってさ、半期で結果を出すものでもないし、総決算するわけでもないし。金になる、ならないとか、費用対効果だとか。
そんな大人の姿勢を見てたら、拝金主義にしかなりませんよとしかいいようがない。いや、なった結果が今なのか。
教育改革をしないという改革をして、先生方がもうちょっとゆっくり教えることができて、生徒ともっとインタラクティブになることが必要ではないかと思います。それだけで、学びがおもしろいと感じる生徒は増えると思います。(そこからは、放っておいても自主的に楽しんで学び始めます。)
上へと芽を吹かすため
下へと根を深く
(ZORN 「Roots」)
やっぱり、国語、特に古典、日本という文化を自分のRootsを知ることが大事じゃないですか。
小学校のころから英語とか習わせたりしてますけど、こういう根っこが深くない人は、英語がペラペラでも、話すことがペラペラで面白くないですよ。
自然とか、自分と違うもの。他と触れ合うこと。混ざり合い、わかれて。混ざりつつわかれてて。
私の原体験は高知県の仁淀川で泳いだり、山に入ってかにをとったり。
その不思議さ。自分なりのセンスオブワンダーがあったから、深みに入り込むことがあるのかもしれません。
深みに入り込むってなんでしょうね。
孤独なのかもしれません。アレントは孤独を自身との対話と定義していました。そして、寂しさは、そこで自分自身と話せず、相手を求めることだと。
参考文献
武術的思考 内田樹
〈責任〉の生成 國分巧一朗 熊谷普一郎
センス・オブ・ワンダー 森田真生