赤瀬川原平の文章『オブジェを持った無産者』を読んでいる。
『オブジェを持った無産者』をもらう
昨年の暮れに、近くに住む友人のⅭさんとお買い物に出かけた。時々、Cさんは、車の運転できない私を町に連れ出してくれる。帰りに、赤いギンガムチェックの紙袋を「どうぞ」と手渡してくれた。家に入って見てみると、『オブジェを持った無産者』が出てきた。思わず、「わツ!」と固まってしまう。赤瀬川本は、結構たくさん持っているのだけど、この本は持っていない。第一、ちょっと高いし、4千円以上する。うれしい~。それで、今、赤瀬川原平の文章『オブジェを持った無産者』(河出書房新社/2015年発行)を読んでいる。
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本を読む時は
本を読む時は、大抵、赤鉛筆や鉛筆などで、傍線を引くことが多い。後から、気に入った個所を探し出すのが簡単だから、引かずにはいられない。できれば、赤鉛筆よりも、柔らかくて、太めの芯のダーマトグラフで、贅沢に線を引きたい。時々、芯が折れて、床に転がって、床に模様を描くけれど。どんどん引くので、ページが真赤になってしまう。鉛筆の書き込みもあって、本はどんどん賑やかにになってくる。
しかし、この頂いた新品の本を赤鉛筆の書き込みで埋めるのはなんか気が引けるので、付箋にしてみた。
読んでいると、本は、こんな感じに大変なことになってきた。
これは、まるで、弁護人請求の証拠物件(本の中央部分に在る)の中西夏之作品—洗濯バサミは攪拌行為を主張する状態ではないか。
何度でも、言葉を味わうための付箋バサミ。
この付箋バサミを付けておけば、気になった部分を探し出すのは簡単だし、ペタペタ貼り付けるだけで、貼ったぞと安心もする。しかし、この付箋バサミには、欠陥がある。本文に貼り付けた付箋は周辺の文字を隠してしまう。やっぱり、もう一つだなと思う。
赤鉛筆だと、脳内のプールに、すぐ文字が飛び込んで、脳のコリをほぐして柔らかくしてくれる。
しかし、この中西作品の洗濯バサミは痛そうだ。誰でも、一回くらいは、自分の指とか、肉体の一部を挟んだことが(洗濯バサミで!)あるかもしれない。そう思うと、この中西作品「洗濯バサミは攪拌行為を主張する」は、触覚フォーカスの肉体表現だ。
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意見陳述書1から
この本で、まず最初に目に入ってくるのはライトグリーンの意見陳述書で、そこだけ色が違っている。本を閉じても、中央部分にグリーンがラインを引いて美しい。そこから読む。
意見陳述書1ではニセモノ、本物のメカニズムの視点から、信用という名の約束された幻想としての貨幣経済を分かり易く解釈してくれる。
ニセモノ、本物の模型図式として描く、裏面のない千円札によって、赤瀬川氏は、色々なモノに立ち向かっていたんだなあ~と思う。
立ち向かうのが最初にあったのではなく、結局、立ち向かわざるを得なかったのではないか思うのだけど。どうなんだろう。
色々なモノって何だというと、
紙幣による約束された幻想、
紙幣による、価値という名の表面、
などについての自分の問
模写という行為
紙幣の200倍というあの模型は今どこに眠っているのだろうか。どこかの家の壁面を装飾しているのだろうか。それとも、暴れないように厳重にカギをかけた倉庫に熟睡を強いられているのだろうか。裏面のない使用不可能な200倍の大きな千円札の模型が、生命を持ったもののように、生き物のように感じられるから不思議だ。
その不思議に1995年の名古屋市美術館で出会ったことがある。
できることなら、もう一度見てみたい。
大きな雲形定規で引かれた線も見てみたい。。
。。。と書いたところで、”千円札拡大図”については『内臓とこころ』(三木成夫著/河出書房新社)を読んだとき、感じたことを既に文字に置き換えていたことを思い出した。それをすっかり忘れていた。胃感覚が染み出ている内臓文学としての赤瀬川作品を探っていると、やっぱり、この"千円札拡大図”が思い浮かんできたのだ。
下記にもう一度書いてみる。
千円札拡大図
”の本名は、”復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)”という。凄いタイトルが付いている。展覧会では、畳一畳くらいの大きな千円札の前に机があって、自作のテンプレートがズラーッと並んでいた。このスゴイ曲線定規(できるなら、もう一度鑑賞したい。作品じゃなくて定規を見たいって。。定規は図録には掲載されていないのです。)があったとしても、千円札作品に挑むには、”よく見る”程度の秘策でも、何か追いつかない気がする。おそらく、この作品に挑むエネルギーが変換されたものが、この復讐という言葉に出ている。闘う感じに近かったんだろうな~と思ったりもする。この作品は、赤瀬川さん、25歳の時、第15回読売アンデパンダン展に出品されたんだけど、この作品搬入時には、すっかり、手術後の胃も暴れ出していたと思う。
と書きながら、読売アンデパンダン展の熱狂についていろいろと詳しく描かれている『反芸術アンパン』(赤瀬川源平著 ちくま文庫 1994)を探し出してきた。胃の具合はどうだったのか探していると、もう最初の〈序章 熱と熱の物々交換〉の中に胃の文字を見つけた。
これを読むと、よく見る秘策は〈虫眼鏡〉だったんだと分かる。集中して覗く点の一つ、線の一本は、身体中のエネルギーをどんどんと奪っていったんだと思う。点の一つ、線の一本は凶器だったんだ。自虐的で、自己破壊的な作業だったのにかかわらず、表現活動に駆り立てられたとある。その過程と、読売アンデパンダン展に熱狂する時代の表現する人たちの空気がビシビシと伝わってきて、ジーンとなる。
この、『反芸術アンパン』は読んでいると、拡大千円札に身体ごとぶつかって,力技で挑む姿を想像してしまう。
身体が、丸ごと千円札にぶつかっている。
千円札はぶつかるものなのだ。
〈ぶつかる〉という痛覚を刺激する、これもまた一方では肉体表現による作品なんだと思ってしまう。
梱包の意味
梱包作品は、しっかり紐で括って、丁寧さが強調してあって見ただけで力が入る。括ることで、梱包の意味がさらに膨らむ。意味が倍増する。扇風機らしきものを梱包していますよと、梱包の文字に紐で、ダッシュを付けて念押ししている感じだ。
赤瀬川原平氏の文章は、『現代詩手帖』(大昔の、1970年代の、今となっては、昔過ぎて、)で読んだのが最初だ。記憶がしっかり残っているのは、あまりにも面白かったので、ノートに書き留めたからだ。そのノートがまだ本棚の片隅にあるのは知っていたので、見てみると、少し記憶とは違っているけれど、やっぱり面白い。
「夢の鋳型」
古いノートを見ながら、ここでやはり〈鋳型〉の文字を発見する。〈鋳型〉も〈模型〉に通じる思考の回路がある。そのような視覚のイメージが赤瀬川作品の中心部を構成する大切な要素のひとつに据えられている。
現代鍋族?とは、煮物の中核ばかりに目を奪われて、食うことばかりに専念している。そうすると、オコゲの層が厚くなってギッシリ詰まっているという鍋のイメージだ。
わたしの記憶は間違っていて、記憶そのものが鍋にコゲついているオコゲだとずーっと勘違いしていた。夢の鋳型としての記憶、鋳型がオコゲ、オコゲが夢ということになる。
〈鋳型〉というイメージは『オブジェを持った無産者』の中にたくさん出てくる。
包装の論理〈種村季弘〉
ノートの裏面には、包装の論理〈種村季弘〉があり、上部には図を添えて書いている。
包装するとは何かということが簡潔に書いてあって、驚きと共に、なるほどと感動した記憶が、オコゲという言葉と一緒になって甦ってくる。
包装紙で包むことによって、中の内容物があいまいになる。ぼやけてくる。が、そこを紐でくるんで、しかもきれい!に、丁寧に形のアウトラインを引きながら、物体の形を分割する。大きいとか、小さいとか、曲面であるとか形を紐で解釈するのである。種村季弘氏の文にある、問題の物体の鋏とか電気扇風機とあるのは、赤瀬川作品の鋏であり電気扇風機である。考えてみると、今、理解することが出来たわけで、この文章を書き写す時には、ぐるぐる巻きの鋏も扇風機も知らなかった。そのはずです。
図録を見ながら、その紐の結び方に感嘆している。結び方の細部にまで気を配ってあり、静かな美しさが感じられて驚嘆している。
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