僕にとってのアートとは。
僕がこのnoteを始めた時に、多くの人に言われた。
誰も、何者でもない人間の長ったらしい文章なんて読まないでしょ。って。
確かにな。と思いつつも、だから何?という感じでスルーしていた。
でも、僕の中ではしっかり突っかかっていた。
それでも、ずっとこのnoteへの更新は続けている。
平均で2、3000文字の文章を描いている。
長い時なんて平気で10000文字超える。
もう、何冊か本にできるくらいの量を描いてきた。
そう僕にとってのアートとは
言葉であり、文字である。
ちょっとだけ、僕の過去を話したい。
僕は、小中高と全く勉強をしてこなかった。
どれぐらいかを表現するのは難しいが、平気で常識的な問題を出されてもわからなくて笑いが取れるくらい勉強に触れることがなかった。
本なんて読んだことないし、漫画すら読むのに漢字がわからないことなんてざらにあるレベルだ。
そんな僕が、19歳の浪人生活を機に毎年100〜300冊くらいの本を読むようになった。
何かの資料には、この国では、文字や文章が読めない人が多く存在すると言う事実が記載されていて、人のゴシップネタだったり意味のわからないことで炎上すると言う現象の根本的な原因がそこにあることを知った。
周りを見渡すと、7割くらいでちゃんとコミュニケーションが取れている人がいないと言う感覚がある。
それくらいに、深刻な問題だと僕は感じている。
同じ言語で同じ文化のもと生まれて育ったのに、会話や言葉が通じていないと思う瞬間が頻繁に増えていっている。
愛しているよ。と伝えているはずなのに、相手には馬鹿にしてるの?と言わんばかりのリアクションを取られたり。
一緒に頑張ろう!と伝えているはずなのに、相手には足を引っ張るなよ!なんて思われていたりする。
これは、根本的な読解力の欠如から生まれている。
この読解力や言葉の意味を汲み取る力を鍛えるのには、やはり文字や文章に触れる時間を増やすしか方法はない。
しかし、今それが難しい時代になっている。
文字や文章以上にわかったつもりにならせるものが増えまくっているからだ。
動画やアニメーションがその筆頭により文字や文章は読まれなくなっていくし、読めなくなっていっているんだ。
僕は絵を描き始めたのは2年前。
その時に、強く感じたことがある。
どうしたら、人に文字や文章を読んでもらえるんだろうと。
それには、権威性だったり社会的信用だったりが必要だ!なんて言われるがそんな簡単な話ではない。
僕が、解決したいのは、そのきっかけがどこにあるのかというところである。
一つの答えに、漫画や絵本があった。
漫画は今じゃ日本が唯一世界で戦えるジャンルだ!とまで言われている。
よーく思い返すと、どんなに難しい歴史の勉強やコードなジャンルの勉強でも漫画で読むとどんなに乏しい学力の持ち主でも余裕で頭に入るみたいな現象は僕自身でも味わったことがある。
絵本も、まだ言葉の意味や使い方がわからない子供でも、絵や簡単な文章によって楽しめる仕様になっているんだ。
僕にとってのアートとは、言葉や文字をより一層に人の心や脳に届けるもの。
言葉や文字をより魅力的なものにするものなんだと思った。
他に例えるなら、お花や雲みたいなものだ。
僕にとっての芸術はこのお花や雲が芸術といえる。
お花は、単体での美しさもありながら、質素なところにあればその空間が華やかにものに変わる。
お花には主人公的な魅力と脇役的な魅力の両極端な効力がある。
汚い人間がお花を持つと味が出てその汚さすら美しさに変わり、美しい人がお花を持てば何倍にも美しさが引きでる。
雲もそうだ。
僕は青空や雨雲が嫌いだ。
僕らは、空を見た時に、青空を見て綺麗だなと思っているんじゃない。
不確実でその日にしか見れない色と光と雲の総合的なものを見た時に空への感動が生まれている。
勝手な考えだが、青空を見て綺麗だ!って感動する人間なんてマジでいないと思っている。
綺麗だ!と感動する空には必ず雲があり、雲がその時にしか出せない、もうその空が見ることができないかもしれない!と言う不確実な要素と儚さのコンボによって僕らは空を見て感動をしているんだ。
つまり、不確実な出現をする雲は、紛れもなく芸術そのものなんだ。
僕は、それを届けたい言葉や文字に飾りをつける。
この飾りが僕にとって絵を描くと言うことだ。
9月28日〜9月29日の2日間で個展をやる。
これらを存分に表現して来た人に感動を与えられるように当日までさらに頑張ります。
個展の詳細はこちらから見れます↓
待ってます!!!
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