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ガチ恋勢の擁護とファンの階級制

前提

ガチ恋勢・ユニコーン・後方腕組彼氏彼女面・厄介オタク・パラソーシャルと言った具合に、一見ファンに擬態している「招かれざる客」が如く扱いを受けていたり、あるいは逆説的に「その他招かれざる客を受け入れる場所」というような烙印を付けられている昨今、改めてそんな人たちが抱く感情の正体だけでなく、昨今流行っているラベル化と共通フレームの乱用からなる必然的な擦れ違いを記す必要があると思った。


概要

本稿ではターゲットとなるガチ恋勢の定義から始め、ガチ恋勢らが抱える感情構造とコミュニケーションから必然的に発生する擦れ違いを説明する。ファンが感知するガチ恋と、コミュニティ内の価値と、ヒエラルキーがあることを明言する。

ガチ恋勢の解説と擁護

本章では以降使用し続けるガチ恋勢の定義を行い、その感情発露経緯の説明を幾つか例を出しつつ説明する。そして最後に、ガチ恋勢の擁護を行う。

ガチ恋勢の定義

ガチ恋勢とは公表の有無関係なく、推しに対して恋愛感情延いては恋慕を超えた愛情を抱く人達のことを示す。そしてその大多数はその感情を用いて中長期以上の関係性を継続できるように心掛ける。
公表の有無関係なくと記載した意図としては、SNSを用いての宣言、配信またはライブの参加だけでなく、月毎の消費金額や特定コンテンツの作成等の何だかんだで数値上として観測しやすい要素以外にも、潜在的に推しのことを考えている時間や推しによる価値観の変化やプライベート・仕事への意気込み具合の増量も含まれるため、公表の状態を関係ないものとする。
そしてこれらの要素が推しに対する恋愛感情が基幹部分を担っている点がガチ恋勢たる所以だ。恋愛感情を含めないためには、別の人との付き合いの延長線上だったり友情と言った個人内の感情の境界線以外にも「ボイスを買わない」「安直に好きと言わない」「猫なで声にならない」等のタブーを設けることで恋愛感情が無いと自分内で整頓できる。その逆も然り。
最後にそれらが寄り確かである且つ寄り継続できることを前提とする。実際にこの統計は手元にないが、YouTubeメンバーシップ・Twitchサブ・Fanboxのプラン等、様々な点で下位と上位プランが用意されているが、一度でも上位プランに入ったら(明確にガチ恋を止める時以外)プランを変更または脱退する割合はほとんど居ないだろう。また同じく新しいグッズが展開されようものなら、現所持数に関係なく、自身が買わざるを得ない存在であることを認めながら購入を積極的に検討する。また消費を伴わない手法でも、推しのために使う時間、推しのために試行錯誤を繰り返し創作活動だけでなくコミュニケーションの言葉を考え続けることも含まれる。これらは推しとの関係性や自分の恋愛感情の正当性を継続させるために行われ、実際の自生活の限界が訪れるまで見直されるとは限らない。
なお前提で記載されていた「ガチ恋勢・ユニコーン・後方腕組彼氏彼女面・厄介オタク・パラソーシャル」の差異は本稿では、上記定義に該当するのであれば本質的に同じ扱いとするため、本稿では「ガチ恋勢」と記載する。

感情発露経緯

さてガチ恋勢は公表の有無関係なくと記載したが、ファン自身が練り上げた恋愛感情の割合次第では、少しだけでも表に出した時点で色濃く表れる。俗に言う「同担拒否」等の独占欲を大部分抱えた台詞はどのメディア媒体でも大抵目立つし、またはその感情に部分的に性欲を含めた場合でも、ファン間だけでなく推し本人にも嫌がられる可能性がある。
だがそれは「恋愛感情も恋慕も愛情も全て無害である」ことを前提にしているために発生する。上記の「無害」の定義もコミュニティ次第では全然範疇が違うし、こういった事故紛いのことが発生するのはガチ恋勢が抱いた感情の中では、自身の恋愛感情には必然性もあり無害ではないという方程式が出来上がっているからだ。無害ではないと思う・思わないにせよ、その感情を表に出す時だけは推し付近のコミュニティを全て無視しても良い、と認識してる可能性もある。
また逆にそういった感情に対する免罪符を持ち出すためだけに、大量金額消費と継続年月の証明写真{高額スパチャ・痛バッグや痛車・クラブ継続特典の表示・その他クリエイティブ活動}と共にどこからともなく「好きです!」を100万倍濃縮させた感情を表すこともある。
現時点から察せられるように、ガチ恋勢には自分が信じた形の感情と、それを継続させていることの証明と、全てを何とか現実世界に顕現させる努力を(公表有無関係なく)、可能な限り推しにぶつけたがる。全ての読点を一つの関門として捉えた場合に、様々なミスマッチや情報の抜け落ちが発生しうるのは容易に想像できる。そしてその苦悩をガチ恋勢自身が一番判っているし同時にガチ恋が叶うか叶わないかを最も天秤にかけているのもガチ恋勢自身でもあるのだ。
こんな大量のプロセスを行った感情が無害であると主張するのは楽観主義を極めすぎている。またコインの反対側として、辛うじて表に出てきたガチ恋勢の文字の大本の臨界点間際の感情がどんな形状だったのかを想像するのも難しい。

別視点の見方をするならば、歌舞伎町に縁のある人が推し活を始めた場合に、高額スパチャを送っても良い配信を積極的に見つけたり、大量に買えるグッズを見つけては大量購入するだけでなくメルカリでの転売済みグッズも積極的に集めるだろう。
逆に海外のガチ恋勢ならばCapsLockをONにさせたまま、まるで出かける前と寝る前のキスが如く「I LOVE YOU」と書く人も居るだろう。
そしてTwitter(現X)を長年使用してきたガチ恋勢ならば、その他ガチ恋勢を率いつつSNS上で「正しいタイミングで正しい言葉」を言い続けることで自身のガチ恋勢としての地位を確立するだろう。
絵に造詣がある人ならば配信内での細かい描写を補間するために即席的なファンアートを描きつつ、記念や記録更新された暁には渾身の1枚を送る。
上記は全て「見やすい」ガチ恋勢の行動且つそれぞれの背景が浮き彫りな状態で何を基準に「恋愛」を表に出しているのかが判り易かった。ただ実態としては判り易いファンばかりではないし、判り易いと思っていた人たちもどのような内省を抱えているかも判らず自身の感情発露方法に嫌気がさしている可能性もある。
金額の話であるならばFanboxの方が還元率が高かったり、デジタルデータならば際限なく買えるがそれを表現するのが難しく、何なら自分で会社を作って推し自身に仕事を渡せる奴が一番貢げているという解釈もできる。
海外勢には残酷な「文化圏の違いによる愛の違い」を気づくのには、到底インターネット上で実現するのが難しいし、それに気づいた人達は数多な方法で愛を表現し始めている。「自分の感情が愛であることに代わりは無い」という哲学的な解釈を、その他理論を併用させないまま継続を試みている。
SNSの猛者に至っては、SNS以外での表現がそこかしこに蔓延っていながらそれを賞賛しているのか下に見ているのか判らず、ただただポストしかできない自分に嫌気がさしているのかもしれない。
絵にも枚数やSNS上での評価等色んな雑多な数値が混ざるだろうし、結局その推し本人からの反応があるとも限らないし、描き続けてるからといって上達する保証も無いので、ファン以外から見たら「筆を遊ばせている」以外の何でもない。

ガチ恋の擁護

昨今の様々なメディア媒体だけでなく、共同体主義から個人主義への移行に伴い、自身なりの恋愛感情の定義を持つ必要があることを間接的に推奨され続けている。
メディア媒体では作品やニュース記事やそれっぽいポストを経て、統計的に実現しにくい設定や出会いの連鎖をあたかも普通と称し、続けて表現する愛情も「これも愛の形の一つ」と神聖化を止めない。また一部メディア媒体に至ってはそれ以外の形は愛ではないと排他的な行為を及ばせることで、自身こそが恋愛の権化であると主張することもある。無論それらが純粋な感情や新しい理論展開による啓蒙活動とは限らず、自身の地位を確立させるためだけに主張する人も居る。
そして共同体主義から個人主義の移行が激しくなった昨今に置いて、家から離れることをデフォルトとし、親とは違った恋愛の価値観を積極的に持つことも必須であるという風潮がある。無論旧態の結婚制度や家族愛に固着して自ら不幸に貶めることは避けるべきだが、同時に様々な形と機会で恋愛の価値観について議論してくれる人々から積極的に離れることは早計と言わざるを得ないだろう。
こうしてメディア媒体から様々な愛の形がある、愛にも旧態という概念が存在する可能性がある点から始まり、新たな恋愛を探させようとするスキームから発展させて、愛には個人的解釈が必要というプレッシャーを社会全体が掛けている。
そしてこの理論はガチ恋勢にも適用できる。自分が応援している推しが特別であるという宣言だけでは足りず、ガチ恋として継続している関係もその他関係性と一線を画す必要がある、というプレッシャーを受けている。
なので少子高齢化社会に「若者は何故結婚しないんだ」とプレッシャーを受けるのと同様に、「お前のガチ恋はどこまでガチなんだ?本当にそれは恋なんか?」という漠然とした問いかけを幾度と多方面から、直接・間接的関係なく指摘を受ける。上記の「感情発露経緯」にて記載した通り、ガチ恋勢が抱いた感情の具現化という点だけでなく、背景にある感情の正体が同じであるとも限らないのに、このプレッシャーの末に捻りだされた何かをガチ恋であると認識された上で評価される。おちおち恋愛ができなくなる昨今に拍車をかける事態だ。

ファンと階層

ガチ恋の定義が完了したため、次はコミュニティ内でガチ恋が如何に観測されやすいかを説明し、ファン間で共有される価値があるからこそ発生するヒエラルキーの存在を明言する。

他者による観測

ポストやコメント内容からどんな性格かを推測できるし、SNSの利用方法からも判明できる点も多いし、推しの何をリポストしたのかも判り易い。
ただそれ以前に、推し文化が発達しすぎて少し検索するだけで、そのファンがどういうタイプの人間か大体察せられるし、元々別の推しコミュニティに所属していた場合には直感的に判ることもある。
こういうやり取りを経て推しとファン以外にもファンとファンの関係性が潜在的に構成されていくが、ファンは他ファンを深堀する必要性は(そのコミュニティに所属する分には)無いので、自身の中にある倫理基準に合わせて他ファンをカテゴライズ化させていく。
中でもガチ恋勢はコミュニティの表側に現れた場合にかなり簡単に観測されやすい。特に1回でも配信中やライブ中にて「世界で一番愛してる」と感極まってコメントを残そうならば永遠にガチ恋の烙印が押される。そして以降派生するあらゆる行動は「ガチ恋が起因している」ことから察せられる。推しの行動とそのファンの行動原理がガチ恋であることから、特定のタイミングで特定のことがコメントされるという、出来の悪い恋愛物語を幾度と再放送させられる。その再放送を望むが如く推し自身が煽った暁にはパブロフの犬が如く反応する。
この現象が如実に発生する理由としては、上記の「ファンは他ファンを深堀する必要性が無い」という解釈をさらに広げて、推し自身が明示しない限りにはファンは他ファンを検知する必要が無いので、ファンは推しとの関係性を最優先にし、自身を公表させることに憂いを覚えないタイプに至ってはその他関係は存在しない等しいので、その主張の強さだけでなく、周りを無視しているという点でも脚色を浴びる。

ファン間の価値

では目立ちやすいガチ恋、またはガチ恋に連なる行動はどういう価値があるべきなのか。まず推しのルールの中にガチ恋の在り方について説明を直接・間接的に述べている場合もある。それは俗に言う「年下なので可愛いって言って欲しい」という明言以外にも、お姉さん系が「威風堂々(梅とら)」を歌ったり、お兄さん系が急に騎士のロールプレイをやってユアハイネスと言いだしたり、あるいは全ジャンルをひっくるめたボイスを定期的に出す等、ガチ恋の在り方を報酬付きで指南する推しも居る。よって推しが認めている価値を遂行するという形で、ガチ恋が推しの想定内に留まり続けることで推しに与える価値もある。
次は知名度と金額に関する価値で、投資金額量の点もあれば、利用するSNSアルゴリズムの貢献度具合も数値として換算できる。だが公表されている数値以外にも、イベントのチケット販売率やグッズの総合購入数も、またガチャ系グッズのメルカリ出現率等も大手になると含まれる現象だ。これら価値は推しが存続し続けるための価値が同じだからこそ観測できるしガチ恋だからこそ数値の大切さを重く受け止めることで自身の恋愛により正当性を加えられる。
またコミュニティの賑やかさも、ガチ恋勢の感情を糧に発露されたあらゆるメッセージも推しを良く刺激し、いつもの一面より洗練された姿かまたは新しい一面を見せてくれる機会にもなり得る。
意外と道はたくさん遺さているように見えるが、これらは推し自身を資本として皆で共有し育むことで価値として認められる。よって一歩でも道を外れ違和感を覚えさせた暁にはファン間で共有される価値または推しの資本に適さないと判断されるし、同じガチ恋勢自身から否定されることもある。また大前提として、そのコミュニティ内に所属する全員が恋愛感情を基準とするわけではないのと、同じ恋愛基準かと思いきや垣間見た他者の恋慕が異質すぎて距離を置きたくなることも日常茶飯事。
なので一見ガチ恋勢が一番「ファンを遂行している」ように脚色されるケースがSNS等で散見されるが、実態は推しのルールと現実世界が認めている価値を通じてファンであり続けられるのを許しているので、そのいずれから逸脱した時点でファンではなくなり、コミュニティの存続を大きく及ぼす何かに成り下がるのだ。

飽くなき競争の果てに

無論渡る世間に鬼は無いという慣用句があるように、数多のガチ恋勢はファンであり続けることを許されているし、推しから直接言われずとも他の誰かから咎められて悔い改め長年ガチ恋で居続けられたケースも多々あるし、そうでなくとも一度ガチ恋を拗らせ過ぎてやらかしても別コミュニティに移り込んで次は「光のガチ恋勢」に昇華するケースもある。
だからこそ失敗した経験と同じく成功した経験も培われ、その人の中にあらゆる「推し方」に関するメソッドや最適解や新解釈をより現実世界に顕現させることに長けるようになる。
これは何を意味するのかというと
「5年目のガチ恋は言動が清々しい」
「ガチ恋になったばかりは定番ネタを知らない」
「ガチ恋らしき宣言は見たこと無いが、よく面白いコメントをする」
「拍手と可愛いと挨拶コメント・エモートしかしない」
「必ずイベントに参加する」
「特定の配信にしか現れない」
といった具合にノウハウを培ってきたファンは評価されやすいコミュニケーションを展開する。
ファンとして遂行できる要素は、必ずしもガチ恋具合とは連携しないが、推しが楽しそうな場面を自分じゃない要素だけでなく、よりファンまたはコミュニケーションを遂行している人達から起因されている様子を何度も見させられる。
それが出来ないガチ恋勢は、その全てを叩き割るように急に「5万スパチャ」しても良いわけだが、その投げられた金額の背景には一体どんな背景があるかは投げた本人にしか判らない前提ではあるが、怒号のようなものが聞こえるのあ幻聴ではないだろう。
こういった「長年のファン」と「ガチ恋」の間に発生する軋轢は、自分らがファンであり且つ推しと推しの資本を中心にしているため、敵意や悪意が無くとも発生してしまうし、推しとファンがまったくの外部から寄せられた幾つもの壁を共に超えてきた経験こそが、そのまま新規ガチ恋勢の壁として立ちはだかる。
誰も明言していないだけだが、推しとの関係性・プラットフォームの設計・創作活動・社会地位・コミュニケーション経験から、よりファンらしさを競えるしガチ恋具合も競える。究極的にそれらの評価が成されるのは推し自身が認める資本だけなのだ。
そう、階級の境界線が明確ではない点を除けば、推しとそのコミュニティ内では必ずヒエラルキーが発生する。それは作りたい・作りたくないという意志に関係なく、コミュニケーションの本質・推しとファンの関係性から継承されるコミュニティ・推しが抱える歴史等が推しの資本であるので、必然的にヒエラルキーを発生させており、推しとファンと視聴者全員ひっくるめてヒエラルキーに忠実な感情の経済活動が遂行される。
より推しに認知されているファンが、より良いファンから特殊な喜び方をする推しが、そうでない人達では得られない価値を見せつけていく。辛うじて「新しいファンを受け入れる」という体制のみで新規参入は都度入ってくるが、端に上記現象を抑制する要素に成り得ない。
自身がファンだけならば、過去に居なかったことに関して問題は無い。何故ならばファンであり続けるためには推しが提示するルールに従うだけで、妬みが発生する要素が無い。
ただガチ恋は違う。自身の恋愛感情に対してガチである表明を他者に見せるだけでなく、自身が抱いている恋が本当に恋であり続けるために、それを問いかける自身と他者に抗い証明する必要があり、目前に広がるヒエラルキーは恋敵のようにも思える。

一縷の希望

ただ恋愛がしたかっただけだったのに、ガチ恋勢以外でしか立場は用意されておらず「ゆる恋勢」なんぞ単語が成立しないが如く誰も使わない。あたかも緩やかに禁忌を犯しているように「ガチ恋」と言い続ける理由は、従来届いてはいけない存在に対する恋愛感情だからか、はたまた推しという概念自体が自身を公表させ資本を蓄えることが本質だからか。
だが上記にて私が記載した一切には、明確な欠陥がある。というのも恋愛感情があたかも他人から観測されやすく慣れしたしんだ何かと記載したが実態はそうとは限らない。幾千の恋愛作品があろうとも、それらは作品という形態で取り扱いやすい形をしているだけで、恋愛の全てではない。またこの界隈では至って普通に、恋愛と別の要素を併用させている。
恋愛に創作活動を乗っければ、難しい技術を通り越して創作された推しのビジョンまたは有り方を展開できる。その時点であなたは推しに新しい形の資本を提供するクリエイターの要素が着目され、恋愛感情がふんだんに盛られていても良しとされるだろう。
また言葉にしないといけないSNSという環境事態を否定するが如く、カラオケで歌ったラブソングのレシートと共に推しのアクリルスタンドを掲げるだけでもだいぶ違う印象を与える。一部の人達は旅行に連れ出しながら「似合っている風景だから」という理由で共に写真投稿をする。これらも立派なガチ恋で恋愛感情を表す行為だが、文字として顕現されていない分または情報が分散されている分見過ごされることが多い。
またはファン内に歴戦のガチ恋勢が居た場合、且つ推しの環境に適応してきた履歴があった場合には、その道筋を分析して現代に当てはめさせ、現代に相応しい形で推しとコミュニケーションを取ってしまうという、文字通り技を盗むっていう形でも十分良い一手になり得る。

闘争の果ての希望か、はたまた悪魔の手招きかはさて置き、恋愛は平等に無限の可能性があることを実感する機会は結構多い。
恋愛の先の有無に関しては、恋愛の責任をどう認識するか次第ではあるが、存外歴史を通して「恋は盲目」というのは正鵠を射る表現なのだ。
改めて、全ガチ恋勢に幸あれ。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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