「『空気』の研究」読書感想
人生にてことあるごとに、山本七平氏の書籍を読む選択を過ごしてきたわけで今回はこのNote企画に合わせて読み返した。
「臨在感的把握」のバッチリさ
作者の山本七平氏は主に戦後から1980年代までの執筆作業もとい啓蒙主義的というより自己啓発本も出版をすることさながら、日本人への多角的な見方を提供しつつも、当時を含め現代でも通用する客観的かつ論理的な宗教観の紹介を行っている。
そしてこの本では、日本人が主に抱える宗教観が「臨在感的把握」になる。題材として福沢諭吉の幼少期の話然り戦艦大和の出撃然り、当時話題になっていたイタイイタイ病や自動車のNOxガス排出に関して「魔女裁判」染みた儀式を経て、超常現象的な何かを物や事柄に付与することを臨在感的把握と呼びんでいる。それを利用したり発生させたりした原因並びに人々への免罪符として使用する。だがそれらは直接的な免罪符という形で使用されるのではなく、臨在感的把握から発生させられた「空気」によって包括されたまま着々と実行される。
この臨在感的把握に「神聖」という単語が通じないのは「善悪」の「悪」だけ付与されるパターンや、それを明証化し否定したとしてもなお存在し続ける肥大化しつつも実体化した上で存在を抹消にできないから。ただし尺度という考え方ならば、伸縮自由にも関わらず絶対性があるならば、その倫理的暴力性からは「神聖である」以外に形容し得ないことは付記しておく。
書籍内では作者がかなりの例題を取り上げているが、この不穏さを伝えるならば一般的な5人以上の会議を例に出せば判り易い。ある命題から決定事項を挙げる会議にて、各々7:3/6:4/5:5引いては4:6/3:7の賛成と反対の比率を持ち合わせていたとしても、会議が醸し出す空気からは賛成以外の意見を捻出してはいけない脅迫概念染みた経験をする。ただいざ会議を抜け出して飲み屋なり自所属部署なりランチなりに行ってみると、易々と反対意見を出すことができる。このメカニズムの単純な理由としては、大勢が集まった会議にて決定事項を選ばないといけない空気という臨在感的把握の影響は、会議室を抜け出した上で違う空気に触れた場合に、消失するからだ。
ただ同じ空気に支配され続ければ反対意見は無かったものとされ、賛成意見の絶対化が遂行され続け、上記の会議にあった決定事項が覆すことのできない事象へとなり立ち、また新たな空気を生むことになる。むしろ、会議内にあった空気自体が「今までこの会議で最高の決定事項を築いてきた」という空気が自身をより大きく膨らませるためのマッチポンプだった可能性もあるということ。
確かにこれは「事象」と言うと味気ないし、数値化することも難しく、ましてや物体化は不可能。だが余りにも重々しく自分自身さえ保つことができないほどなので「臨在感的把握」という表現がバッチリ納得できる。
水を差す
空気に水を差すことによって、その場にあった空気を雲散霧消させる。この水を差すという現象はかなり抽象的であると作者も名言しているが、作者の言葉をそのまま借りるなら「通常性」や「実は眼前に織りなす問題を言う」ことが水を差すことに繋がるとのこと。
作者にしては珍しく「職場の盛り上がり」を例外として、「共産党」や「仏教国の日本」を先に例題と出していたり、やや過激というより作者と同等の知識量を要する。
なので私なりの解釈を示すと、「低気圧で頭痛が酷くてまともに生活できないよね~」と盛り上がってるグループに向かって、どこからともなく歩いてきた私が「頭痛薬飲めば?」と言うことで水を差す。これは少し昔の言葉を借りるならば空気読めないとか言われそうだが、上記グループは次第に「低気圧だから休む」方向に舵を切るようになってしまい徒に有休を使い果たしてしまうし「低気圧だから作業できなくても仕方ない」と個々の作業進捗に対して漠然として言い訳を用意する。逆に言うと水を差される前までは「低気圧に抗えない」という虚構をありのまま受け入れてたことも示す。
幸いにもこの空気は水を差されるまでもなく、低気圧が続かない日が訪れたタイミングで崩れ去ることが約束されてるが、より大きな環境でより大きな事象で解決の目途が立たない現象が相手だと水を差す存在が居たとしても説得しないといけない対象が多すぎて空気が雲散霧消することなく残り続けるのは容易に存在できる。
今でこそ「炎上」を抑止力としている場面はあるが、令和6年の我々が抱えるいずれかの問題も、誰かが水を差すと自身が抱えていた空気の虚構性に一種のカタルシスを覚え、烈火の如く怒り出すような空気がそこかしこに蔓延してる可能性もある。そもそも作者の「水を差す」という表現自体も、1980年代の表現が故に、現代のような印象の悪さが無かったが今では場合によっては全ての怨嗟を受け止め兼ねない行為になる。
その言葉の強さから、思いのほか1980年代と比べて我々は空気を尊重しすぎている可能性もある。
状況倫理について
作者が度々この空気の虜になっていた人たちのセリフを引用する時には「あの空気ではああするしかなかった」と紹介しており、空気の下では空気が推奨する倫理にあるがままに準ずる様子に対して、作者はストレートに「無秩序的な見方をされる可能性はある」ことを示唆するが、空気を基点に動いていただけで個々人がそれを倫理的にまたは秩序的に行ったわけではなく、如何なる判断と所作も空気に応じたまでに過ぎないと結論付けている。
なのでこの状況倫理を用いて自身への免罪符としてるし、実質的に人々が責任を負ってるわけでもなければ、誰が空気に一番関わっていたかを計算することも無ければ、誰かが禊を行って罪を清算することも無く、ただただ空気に従うし、いざ空気を抜ければ「あの状況ではああするしかなかった」と説明する。
正直物悲しい限りで、この状況倫理もとい空気に従い続けることは、空気が「欲していた役割」を遂行する人々で構成されて個々の意識が無いに等しいことは、空気が織りなすあらゆる現象が戯曲であると示唆しているし、また人々が自分の行いに意志が無いことを享受している証左でもある。
また「空気に対する水を差す」のメタ自体も、互いの歩み寄りが発生しないことを示唆し、このプロセスが常態化すれば空気の虚構性から覚えてしまう無力感が当たり前になる。端的に言おう、絶望が常態化するのだ。空気による支配でのみ幸福と批判と自己防衛を覚え、水を差されることで胸に穴がぽっかりと開いた感覚に慣れていく。
かくいう私自身も「多様性と共有」に関して希望を見出していた時期もあったが言葉の強さと、現代技術が形的に提供するメカニズムに対して、個々の意志があるとは限らないので多様性が形骸化していたと知った時は、私も「多様性と共有」の空気の虜になっていた証左だろう。
最後の感想
現代にもなって読んでもらいたいか否かについて。正直作者の言葉遣いは固有名詞以外のカタカナはとことん存在しないにも関わらず、難しい概念を漢字のみで表現しきっていて且つそれが判り易い点は秀逸だが「活字慣れしていない人々」が多い現代では、より一層飲み込むのに時間と労力を要するだろう。
また作者の執筆当時に流行っていた空気に対して明け透けに話しているが、令和6年にとってはだいぶ過去の話になるし、まだ「政治の話題」としての側面が強すぎるて当時の熱狂感が伝わりにくい。
逆説的に言うと当時の熱狂具合を今の事象に当てはめて考えてみるとスルスルと作者が意図したメッセージが入り込んでくるし、これら「空気と水を差す」サイクルから抜け出して真に自由になることを推奨してる点も納得いく。
たくさんの例題はあるし、作者の癖は強くとも、是非手に取って読んでみて欲しいことは令和6年になっても変わらなかったので、ここまで読んで頂いた方々も機会があれば、今すぐでなくとも未来でも手にとって欲しい。