何故ゲームは昔のほうが面白かったと言われてしまうのか

こんな話題のブログを見つけたので自分なりに考えてみた。
⑴技術進歩に伴いゲームは大容量化
⑵話題を共有できるユーザー数の減少
⑶既視感のあるゲームデザイン
⑷過去の印象を超越する体験
⑸演出は補填される

⑴昔に比べて「ゲームは面白く演出されるようになった」と思う。ムービーによる演出。喜怒哀楽を表情、声、動きで訴えるキャラクターと様々な演出が追加されるようになった。キャラが個性を発揮する為、セリフやストーリーが増量した。結果シナリオが大容量化する。ゲームの進歩に伴い、かつてに比べて咀嚼しきれないほどにボリュームが増えた。食べきれるのは「咀嚼する十分な時間を確保している or 実は食べるものを厳選している」のどちらかである。今や周回できるほどゲームのボリュームは少なくないのである。

⑵ゲームデベロッパーも増えた。オンラインゲーム、コンシューマーゲーム、PCゲーム、同人ゲームと消化しきれないほどゲームは増えた。さらにボリュームも増えた。ゲームを咀嚼する十分な時間を確保しているユーザーが一体どれだけ存在するというのか。ユーザーは総量としては増えているのだが、ファンとなるユーザーの奪い合いが始まった。1つのタイトルを面白いと言ってくれるユーザの数は過去に比べて大きく減少したのである。

⑶デベロッパーはパブリッシャーから開発資金を得るためにウケるタイトルを開発せざるを得なくなった。集客力、話題性の2つを満たすゲームでないといけなくなった。結果、ゲームは差別化するのが難しくなり、どこかで見たような既視感の強いゲーム開発が推し進められる。「ガチャガチャにうん百万と課金するユーザーがいっぱいいるんだろ?」の一言に従うしかなく、減益してるメーカーに溢れてるのがその証拠じゃないかな。これはソーシャルネットワークゲームの例になるが、長く続くタイトルは自身が生み出した独自性を大切にしてると思われる。どこかでみたゲームにしないための工夫が求められているが、その独自性を演出できるデベロッパーが減少したとも言えるかもしれない。

⑷過去のゲームが面白かったと言われてしまうのは懐古主義かもしれないが、塗り替えるだけの体験をする時間も繰り返しも足りてないから”思い出”に残らないんじゃないかな。”思い出”の強いタイトルのほうに軍配が上がってしまうのは理ではなく情なのだと思う。では古ければ古いほど”よい思い出”なのかといえばそうでもない。独自性のあるタイトルは”印象に残る”し、”印象”の度合いが強ければ語り手の”昔”は若返り現象を引き起こすんじゃないかな。

⑸”強い印象”を残すのはデベロッパーの工夫だけではとても難しい。では演出の少なかった過去のタイトルが”強い印象”を大きく残せたのは何故だろうか。過去のタイトルは決して現代に通用するする高いクオリティを提供しているとは言い難いはずである。では、過去のタイトルには昨今のタイトルを打ち負かすの力が秘められていることになる。それは何なのだろうか。
過去のタイトルは容量の少なさから”文章だけの演出”だったり、”簡略化された表現”を工夫していた一方で、プレイヤー側やメディアによる補填要因が大きかったんじゃないでしょうか。 メディアで例えると”コミカライズ”や”ゲーム雑誌”による共通認知による補填である。技術の進化により、簡単に、多くの人に情報を発信する手段が提供されるようになりました。wiki、blog、snsなど。個人による情報発信手段が増えたことにより、情報を得る経緯が複雑化し、ユーザーは分立しているのではないか。

ただ、この風潮もいずれなくなっていくだろう。人命は永遠ではない。ファミコン世代が居なくなり、短いスパンで消費されるゲームを愛好してきた人たちがどういった比較をするのか。”次の世代のゲーム”を面白いと評するのか。新しいゲームのほうが面白いと評されるのはデベロッパーの努力かもしれないが、昔のゲームは面白かったと評されない時代が訪れるということは、その時のデベロッパーに情を残す力が全くなかったともいえるのではないか。自分はファミコン世代なのでその結果を見ることは望めないと思うが。その時代のゲーマーがどのような話をしているのか見てみたい気もする。

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