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没後二百年、大正時代に再評価された「富永仲基」が、そこから百年後の令和に再び世に出る

※書評 「天才 富永仲基 —独創の町人学者―」,釈徹宗/著,新潮新書

#富永仲基 #釈徹宗 #書評 #新潮新書


「富永仲基」

著者である、釈徹宗氏にして「恐らく知っている人はほとんどいないのでは」とする〝この昔の人物〟を、今の世にわざわざ採りあげて、しかも書籍のタイトルにまでしてしまったその意図が知りたくて、僕はこの本のページをめくっていった。

〝この人〟が何物で、どんな功績を世に残したのか。残された資料をもとに順を追って、著者は〝この人〟の魅力を次々と解き明かしていく。

〝この人〟は、十八世紀前半の町人学者で、なんと三十一歳にして没した若き天才であったらしい。

最大の功績は、「経典とは釈迦が直接説いたものではない」とする(その当時のお坊さん方が聞いたらぶっ飛ぶような)論を世に提示したこと。

そんな刺激的な論考は、「〝加上〟—時代に応じて〝説〟に追加(工作)がなされていくこと」という、独自の概念を用いての経典研究を行うなかでなされたそうだ。

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学問の方法論がまだ確立していなかった時代において、オリジナルではあるが現代においても通用する研究方法の枠組みを「開発・構築」したという点は特に瞠目に値するとのこと。

だが、この学問的業績はその独創性ゆえに、当時の仏教界に想像以上の衝撃をもたらしたようで、〝この人〟はかなりえらい目に遭わされた、などという〝美味しそうな物語〟までもそこにあることを著者は匂わせてくれるから、ページをめくる手が踊り出す。

こうした著者のテキストの運び方によって、読者は知らない間にぐいぐいと本書に引き込まれていくはずだ。

さて、著者は本書を通じて「天才 富永仲基」その人について、その主著「出定後語(しゅつじょうごご)」を中心にして腑分けをしていく。

約三百年前に記されたその書「出定後語」こそが、〝問題作〟として当時の仏教界に激震を与え僧侶たちを怒り心頭させたものだ。

この「問題の書」を巡る経緯こそが実は滅法興味深いのだ。

これを記した〝この人——天才 富永仲基〟は、わずか三十一歳にして没すが、その後、約五十年を経て「本居宣長」に再発見され一度は絶賛される。しかし、その後は悲運が続きまたも歴史の中に埋没していき、結局、大正時代に「内藤湖南」によって再びその価値が発見されるまで世に出ることがなかったのである。没後なんと二百年目のことであった。

まさに「早すぎた書」であり「早すぎた天才」であったのだ。

そして、そんな書に述べられていることこそが冒頭で見て頂いた、「(大乗)経典——日本に伝わっている仏教は、釈迦が直接説いたものではないよ」という(過激な)主張であり、当人はそのために「廃仏論者」とか「大乗非仏説論者」であると〝烙印〟を押され、当時の仏教界を敵に回すことになったのである。

天才 富永仲基のこの行為は、物事の本質が曲げられやすい世の中に対しての、天才ゆえのアンチテーゼのようにも映る。

つまり、仏教とは本来「善く生きる」ことをシンプルに説いているはずなのに、その道が直接的に記されてあるはずの経典やその編纂の場の実態は、各宗派の優位性などに重点が置かれたものになっているなどと、富永仲基その人こそは、要は仏教そのものの本質というよりも各宗の権威性を膨らますために〝仏典〟そのものが利用されているではないかと見抜いたようなのだ。

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加えて、学僧たちの派閥争いや、末端の僧侶たちの姿勢のひとつひとつなどにも、〝この人——天才 富永仲基〟は、凡そ釈迦の説いた法とは隔たりのある現実をそこに見てとり、失望したのかもしれない。

そうでなければ、わざわざ「仏教の思想史研究」という、(当時においては)大変危険な道を歩もうとはしないはずだろう。

天才 富永仲基は、主著「出定後語」において、その当時の仏教界が纏っていた権威という鎧を引き剥がした。それは、庶民のひとりひとりがより善く生きる道を模索するための、本来の仏教が説いているはずの〝仏法〟の本質に則った「法」を伝える土壌の再構築にこそ勤しみたかったからではないか。著者である釈徹宗氏の筆の運びに従って、その天才の世界観というものを味わっていくにつれ、そう思わざるを得なくなるのである。

評者である僕が最も好きになった一文をご紹介しておこう。「自分の心の問題なのに、なぜ師資相承によって権威づけするのか」。仏さんと向き合うということ、仏道を歩むということの本質がこの一言に表されていると思う。

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ちなみに、天才 富永仲基の主著「出定後語」における「出定」という言葉の意味は、釈迦が悟りを得てその喜びに浸っている状態である「禅定」から抜けだした状態を指している。

この後、釈迦は弟子達を前にいよいよ説法を始めるわけである。

つまり、釈迦が悟りを得た後に語った言葉という意味が「出定後語」というタイトルには込められているはずだ。そして自分こそはその本当のところを語れるとの自負が込められてもいるはず、と著者の釈徹宗氏は述べている。

もしかしたら、天才 富永仲基は、先の長くないことがわかっていた己の命の問題と向き合おうとするなかで、当時の権威性を帯びた仏教界やお坊さんには早々に見切りをつけ、釈迦が本来的に説こうとした法を、方法論に則った仏典の解釈を深めることで、救いの法を自分自身で見つけ出したかったのかもしれない。

しかし、それであってもどうもそれだけでもないようなのだ。というのも、天才 富永仲基の目にはすでに頃の頃から、二百年・三百年先の世界がくっきりとみえていたに違いない、と著者の釈徹宗氏は読み解いてみせる。

なるほど、二十一世紀の現代において、すでに宗教離れや仏教離れは珍しくない。それらがかつて纏っていた「聖性」や「権威」といったものも著しく低下しつつある。世は「世俗化」の一途なのである。だからこそ、天才 富永仲基は、もはやそれぞれの人が頼れるものは己の理性であって、仏教はそれをあくまで間接的にサポートする立場に身を移している、というような未来透視までをしていたようなのだ。

ともあれ、仏教が本質的に説こうとしたことは何なのか、ということを、当時の仏教界が纏う権威に臆することなくその皮を果敢に剥ぎにいった天才の記した書「出定後語」は、しかし見てきたようにその後二百年にわたって封殺された。

そしてそれは、現代より百年遡る時代に突如、二百年の沈黙を破るようにして再評価されていく。内藤湖南が発見し、宗教学者の姉崎正治や仏教学者の村上専精、インド思想学者の中村元、評論家の山本七平らといったところに高く評価されだす。

その世紀の再発見からさらに百年が経った令和二年。誰も体験したことのないコロナ禍の2020年となった今の世において、天才の名をタイトルにそのまま記した本書の著者である釈徹宗氏により、今一度世にその名を知られるようになった「富永仲基」。

日本人の先人にこれほどの独創性を発揮して、権威や既得権で凝り固まった世界に風穴を開け、世を震撼させるほどの天才がいた事実は、わたしたちに大きな誇りを持たせてくれよう。

私事で恐縮ながら、小生もこの頃、二十年前に実施したもののその当時はほとんど無視された研究「子どもの道くさ」が、最近になって再評価されるということがあった。残念ながら、自分は間違っても天才ではないということも同時に証明されたような気がして、ちょっと寂しいのであるが……。


天才とは偉業を成しながらもその時代の人たちに理解されず、生きているあいだに光があたることもないが、後世の人によってついには高く再評価される人のことをきっと指すのだ。

その意味で「富永仲基」は本物の天才であり、今度こそ世紀を超えて〝長く〟語り継がれていくことを願ってやまない。没後三百年に寄せて。

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三毛猫と博士
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