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「歎異抄」一読で直ぐには救われまいが「価値観」は変わる

#歎異抄 #釈徹宗 #文春新書 #書評

『歎異抄 救いのことば』

釈徹宗師が手がけた仏教関連の新書が、先の『天才 富永仲基』(新潮新書)に次いで連続して刊行された。

扱っている内容に重なるところはないこの二冊であるが、互いに寄り添うようなタイミングで世に出てきたことは単なる偶然ではないだろう。

そもそも著者である釈徹宗師は、いわゆる「仏教書」というものがその歴史の中でどう必然性を持って編まれてきたかという点にも着目してきたわけで、その意味でもこの二冊の立ち位置が巧妙に計算された上で決められたことが窺える。

先のその『天才 富永仲基』においては、「宗派の論理と経典との関係性」に著者は鋭い眼差しを注いだし、本書『歎異抄 救いのことば』でもやはり、テキストが書かれた背景に着目しながらその真の意図というものに光を当てようとしている

『歎異抄』は近代に入り大勢の人の手にとられ注目を浴びてきた。司馬遼太郎にして「無人島にたった一冊だけ本を持っていくなら、それだ」と言わせしめたほどに。

そんな書を著者はこの度、お得意のテキスト・クリティークの技を用いて、それまで理解が難しいとされてきたデリケートな部分の文意についてまでを含む全体を、二十一世紀に生きる私たち現代人の価値観においても、きちんと理解と納得ができる形に落とし込んでくれている

実は、本書最大の特徴は、テキストそのものをそのままに丁寧至極に理解できることにあることは言うまでもないが、その一連の作業の中に、目立たぬようにそっと挿入されている著者の宗教者としての考え方や価値観を存分に味わえることにある

曰く、「宗教聖典は、人類の智慧の結晶としての性格を持つ pp.11」 「死者の目を意識して生きるというのは、人間にとってとても重要なことです pp.135」 「生と死は一つ pp.179など、世俗とは異なる時空間で編まれた書の中から、現代人にも届きそうな普遍的価値を見出し、今の人の感覚に結びつけていくこんな視点こそが、本文の隠し味なのである。

一方で、師は歴とした宗教者であるにもかかわらず、仏教書をただ礼賛するわけでもないからこれまた面白い。

信仰の〝加害者性〟と無信仰の〝当時者性〟について述べたパート(pp.194-195)などは、宗教というものが生きる支えから、ともすればあっという間に転落する危うさに目を向けたもので特筆に値する。

「確たる信仰は、別の信仰を持った人や、別の歩みを持った人を傷つけることがあります」といった指摘には、あるいは耳が痛くなる向きも少なくなかろう。

しかし、だからと言って人々が必要以上にかまえて、宗教へ後ろ向きになる必要もないし、むしろ現代社会に多様な人々が生きる現実を踏まえれば、それは決して得策ではないらしい。

「自分に特定の信仰がなくても、信仰を持った人と一緒に社会を運営していかなくてはいけないのですから(※誰しも宗教とは)無関係ではないのです pp.195」
(※部分は評者による挿入)

著者がひとりの宗教者として日頃どのような問題意識を抱えながら〝道〟を歩んでいるのかということが伝わってくる。

それ故、こんなチクッと刺さる文章も紡ぐのだろう。
「仏教は、自らの業を自分自身できちんと引き受ける教えです。他人が勝手な業の理屈を振り回して誰かを裁くのは間違いです pp.217」

さて、この書評を書いている私こと――<地方寺院の住職>にとって、個人的にもっとも刺激を受けたところは次の部分である。

「(仏典の)『勝手な解釈』と『教条化』の両方に注意していかねばならないと思います pp.273」

なかでも、「教条化」についてはよくよく慎重に常に我が身を省みることが大事であろう。得てして教義の押しつけを生むと共に、相手への非難めいたものとがワンセットになりやすい。そのあたりが間違いなく、「お寺は敷居が高い」と敬遠される理由のひとつにもなっているはずなのだ。

本書の読書中、私は度々、著者である釈徹宗師と密な対話をしている気分になった。それを通して感じたことは、これはもしかしたら一人の念仏者の懺悔録ともなっているのではないか、ということである。

現代の仏教界における著名な伝道者であり、数多の書籍を刊行し、勉強会や講演会に勤しみ休む暇も無いほど多忙な釈徹宗師なのである。だからこそ抱える悩みというものがあるのかもしれない。

私はそれをこんな一文にこそ見た気がしたのだ。

「もし『歎異抄』の中で一つだけ文言を選べと言われたら、私(釈徹宗)はここを選びます。――『親鸞一人がためなりけり』――」

続く言葉はこう結ぶ。
「仏はたった一人に『我に任せよ』と呼びかけるのです」

世の〝大勢〟に向けて常日頃語りかけねばならない釈徹宗師であるからこその選択した「一文」であろう。自らが語るそんな仏様のお話こそは、実のところ「私一人に最適化された救いのために本当はなされている仏の呼びかけである」という思いあってのことではなかろうか。

だからこそ、本書に先立ち「天才 富永仲基」という一冊がまず刊行されたように思うのだ。そこでは、経典は何のために説かれているのか――無論、救いのためであるが――、という問題意識が明確になされている。そして、実際にはそうとも言えないような(経典の)扱われ方の実態にも注目してみせた。

それへ続く形でのこの「歎異抄 救いのことば」では、そもそもそのような救いが説かれている(はず)の教典とは、実は「私一人のためにこそ示されている仏の救いの道であるのだ」というふうに、二冊の本が連続する形で論がさらに一段階深められている。

つまり、これら二冊の書物を順に読むという〝時間的経過〟のなかに「救いの本質」を浮かび上がらせることで、経典というものの真の立ち位置をあえて再確認させる作業を試みているのだ。

とまれ、『歎異抄』を一読したからといって直ちに救いが得られるわけではない。だが、救いとは何なのかということを考え、我が身を振り返ることで、それまで漠然と当たり前と思い込んでいた価値観や生き方そのものを、まったく別の視点から捉え直すことになるのは必至だ。

それこそが、お経に救いを求める市井の人たち一人一人への、ひとりの宗教者としてのこの度の回答であり、またそれは、著者の〝書く〟という仕事を通した「仏の救いは私一人のためにある」という、確たる宗教体験の実感とその吐露であるのだろうと思えて仕方がない。

【評者】水月昭道(みづき しょうどう)。人間環境心理学者。博士(人間環境学 九州大学)。西本願寺系列寺院住職。「子どもの道くさ」研究本が14年の刻を経て2020年夏にバズる。著書に「高学歴ワーキングプア」シリーズ(光文社新書)、「子どもの道くさ」(東信堂)、「お寺さん崩壊」(新潮新書)、「他力本願のすすめ」(朝日新書)他。「月刊住職」連載。






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