タナバタ・イン・マイ・マインド、そしてメン・アンド・ウィメン|weekly
今週も、うでパスタが書く。
今年も七夕は、特にどうということもない日だった。
だいいち昨今の七月はまだしつこい梅雨のさなかであって、天の川だかミルキーウェイだかもまったく見えようはずがないのだから子どもにだってよく分からない話だ。サンタクロースなら願いは叶えてくれるのに、これはいったい何なの?といったところで、神社とならんで使えない願掛けと成り果てるのもやんぬるかな、私の提案はいつもの通り「もうやめてしまえ、こんなこと」だ。
だいたい「織り姫と彦星が一年に一度会える」と言ったって、別に動きゃしないのに「会える」と言われても無理筋だと多くのひとが感じてきたことと思う。他に楽しいこともたくさんある現代に、こんなに地味なイベントを護持する理由はない。
近所のスーパーマーケットは門をくぐったところへさほど派手さもない樹脂製の笹が据えられており、そこへ短冊をさげれば後日いずこへか奉納してくれるとの案内がされていた。
子どもが覚えたてのアルファベットで何やら本質情報を書き付けているあいだ、他人が吊した願い事を陰湿な目で眺めていたら、薄い黄緑をした短冊に下手な大人のマジックペンで、
「リネン以外の仕事先が見つかりますように」としたためられているのを見付けた。余ったスペースへは思い出したように「友達もほしい」とゆがんだ筆跡で押し込んであり、つらくなった。
私は世間を知らないのでリネン業界には明るくないが、まぁこれを見ると何となく迫ってくるものがあるし、根がひ弱なヒューマニストなのでこの手の生々しい悲哀に触れるのはやはり厳しい。
果たして人間は、孤独でない方がめずらしいのではないのだろうか。
しかしそれでも孤独な人間は、しばしばそれを何かの罰であるかのように受け止めてしまうものだ。他方、私にも友達がほとんどいないが、要するにあろうことは私は「友達がほしい」とも思わないほどに幸せな人生を送っているというわけだ。子どもにもカマシと割れているような七夕に、赤裸々な願いを残して買い物をすませた願い主の「今日」は私の想像を絶するところにある。
どうすればいいのかはまったく分からないが、私は自分が手にしていた短冊をふたたびそこへあった箱のなかへ戻し、子どもの本質情報だけを笹へ結わえてその場を去った。家に帰ってふと下のようなツイートをしようと思ったのだが、結局はこれも控えた。
カンパネルラ「僕たちの運命ははじめから決まっていたんだよ」
ジョバンニ「序盤にwwwww」
それぐらい、私はまた傷付いてもいたということだ
ニューノーマルの調子はどうか。
「世界はなにも変わらない」と強がっていた連中も、いまや手を洗い、マスクをし、そそくさと昼飯をすませ、「今年の盆には帰省れない」とこっそり親にLINEをしている。飲食店経営の知人を応援することを諦め、住宅購入を先送りし、賞与の額に悄然とし、子どもの学業の遅れから目をそらし、エコバッグを忘れたことに舌打ちし、それでも意外に金が減らないことに驚きつつ一〇万円でなにかしらエレキを購って「my new gear...」とか言っている。
そうしながらもまだ「こんなもの、変化のうちに入らない」と強弁するのもいるが、これは英語で言えば “Moving the goalposts” に他ならない。「原発事故でも日本は変わらなかった」と言うひとは、あのとき官邸のブレーンがまったく事態を掌握できなかったことによって決定的に剥落した科学と科学行政への信頼が今日も混乱を極める議論の発端であることを見落としている。「バカ、変わったのはおめーだよ」というわけだ。
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