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アーティストの「価値」の測り方:尾崎世界観『転の声』を読んで

アーティストを取り巻く現実は、決して甘くないのだろう。
芥川賞候補作にもなった本作・尾崎世界観『転の声』は、従来の声が出にくくなってもなお、売れたいというバンドの以内が主人公の物語だ。
声が出にくくなれば、当然不安にも駆られる。

そんな不安に漬け込んでくる、チケットの転売。

『転の声』の世界では、チケットの転売が市民権を得ている。
それだけではない。
転売を通じて高騰するチケット価格を「プレミア」として、そのままアーティストの価値みなすような感覚が強く根付いた世界線でもある。

アーティストそのものの価値から離れていく「価値」。そして自壊する。

この世界で「プレミア」がつくことは、アーティストの収入増加を意味するにとどまらない。
アーティストとしての価値が、転売のゲームで上乗せされる「プレミア」によって測られることも意味する。
そこではアーティストそれ自体の良さや評判は、もはや問題ではない。アーティストそのものの価値から遊離するだけでなく、その価値を無限に膨張させることが可能となるのだ。
端的にいうと、実体を持つバンド活動やバンドたちの音楽が、だんだんその実体から離れたところ貨幣価値で評価されるようになる。

このことがわかりにくければ、『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」を思い浮かべればいい。黒いフォルムに仮面を乗せただけの、あのキャラクターだ。作中のカオナシは、突如現れたかと思えばカエルを飲みこんで言葉を獲得し、その後は鰻登りに太客としての地位を確立する。そのとき用いられる手段は貨幣、すなわち金だ。無限に出てくる金をばら撒くことで、圧倒的な地位を確立する。

しかし、カオナシのばら撒いた金が一瞬で土に帰り、カオナシのバケの顔が剥がれる。実体としてのカオナシはさほど力があったわけではないのに、それ以上に力を見せつけようとして、つまり、架空の権力を誇示しつづけようとして、その重みに耐えられず、自壊したのである。貨幣が実体経済を無視して膨張し続ければ、信用の糸が切れるのは時間の問題で、切れしまえば連鎖的に破滅へ向かうこととなる。

カオナシが権力者の地位から転げ落ちるように、カリスマ転売ヤー・エセケンの時代も終わった。エセケンは、「無観客ライブ」だとか「演奏すらしないライブ」だとか、アーティストの楽曲という実体から離れたところで実態のないマネーゲームを展開した。マネーゲームが実体からはなれて膨らむほど、実体の音楽との間に緊張関係が生まれる。それが弾けてエセケンは表舞台から姿を消してしまう。

このように、アーティストそれ自体の価値から離れたところで架空の価値を追求しても、限界が来るのである。アーティストそれ自体を愛す、ファンになる。本作は、そういった価値観から離れていく危険性に警鐘をならしているといえる。

「プレミア」を嫌い、拒絶する以内

アーティストとして売れ続けたい以内は、エセケンにすり寄る。フェスで絶望した以内は、藁にもすがる重いでエセケンとタッグを組むことを決意したのだ。
そして以内はNOT PRESENtという、従来のようなライブハウスでの演奏とは180度異なる企画にも協力する。

表面的にみると、以内はエセケンを半ば神格化しているように見える。それは事実だろう。
しかしそれ以上に目を引くのは、以内はエセケンを心の奥では拒絶しているという事実である。

そのことが顕著に現れるのは、ライブで以内が放った「聖水」である(ちなみに「聖水」が披露される仙台のライブハウスというのは、キャパシティから判断するとSENDAI GIGSというライブハウスと見て間違いない。よく行くライブハウスが舞台になっており、ファンとしてはたまらなかった)。
明確に「転売ヤーなんて全員みずむしになればいいのにね」といっている箇所もあるが、この「聖水」も転売産業に対する怒りを滲ませたものだ。

 エセケンは水を吐くことに否定的だった。あえて吐かないことで、吐くことのプレミアをあげるべきだと言う。でも実際にステージに立ったことのない彼は、ここから見える観客の表情を知らない。ステージに立つものをキラキラと信じて疑わない、全体重を預け切った顔だ。だからプロとして、バンドのフロントマンとして、今日も口の中の水を吐かなければならない。

『転の声』99頁

「聖水」は、プレミアという音楽の良さそれ自体から遊離した貨幣価値で測られることへの拒否を象徴するものなのである。
声がでなくなってもなお、「ステージに立つものをキラキラと信じて疑わない」ファンに対峙していたいという気持ちが、「聖水」を吐く以内から伺える。

現実世界でも、アーティスト自体が評価されているといえるのか?

この小説は転売が大っぴらに行われているという、ある種異世界モノの小説であるといえる。
我々が生きる現実世界では、転売は行われていないし、エセケンという転売ヤーが幅を利かせているわけでもない。そしてその異世界の以内も、なんとか自己を保ち続けることができた。
紆余曲折あった異世界も、我々の世界も平和であるように見える。

しかし、「手に汗握るファンタジーだったね」、なんていう単純な話で終わらせてよいのだろうか。

もちろん、私はそう思わない。
むしろ、この話はアーティストそれ自体の価値が正しく評価されていない現代の音楽を取り巻く状況への警告であるといえるのではないか。

近年、ショート動画でいかにバズるかが重視されている。
そして、アーティストたちは、いかにバズるかという論理に惹きつけられ、バズりやすい曲の制作にシフトされてきている。
そこでは、バンドが本当にやりたいことと、バズるためにすることに乖離が生まれているのではないか?(バズる音楽と自分たち本来の音楽のジレンマに苦しむ物語として『夜行秘密』がある。こちらも興味深い内容を含んでいるため、ぜひとも手に取っていただきたい)。
転売のない世界においても、「バンドが本当にやりたいこと」と「バズるためにやること」がどんどん離れてしまっている。

しかし、悲観する必要はない。
エセケンやカオナシが退場していったように、バズることで音楽性が測られる時代も、終わるのではないだろうか。
正確に言えば、バズる音楽もそれなりに継続する反面、バズりを目的としない音楽への回帰がもたらされるのではないかと思う。
バズりのトレンドがあってもよいが、昔から楽しまれて来た音楽の楽しみ方も併存してほしいというのが私の期待するところでもある。


『転の声』は、音楽、ひいては芸術全般に対して再考を促す傑作小説である。芸術のあり方に疑問を持ったときは、いつでもこの本に帰って来たい。


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