喜びを選び取る
「悲しい、喜ばしい」と「悲しむ、喜ぶ」は別のものだなと、最近考えていました。
はたから見ると喜ばしい状況にいても、何かと悲しむ人もいれば、悲しい状況にあっても、喜びで満たされている人もいます。
「喜びは選び取るもの」というヘンリ・ナウエンの言葉にあるように、どんな状況にあっても、それにどう反応するかは私たちの選択次第だということでしょう。
使徒パウロからピリピにある教会に送られた書簡(ピリピ人への手紙)には、喜ぶことについてたくさん書かれており、「喜びの手紙」とも呼ばれています。
当時のピリピ教会は、不和や間違った教え、また迫害などで悲しい状況にあったので、「喜びなさい」というパウロの助言は、背景を知らない人から見れば、無責任、あるいは能天気に思えるかもしれません。
実を言うと、この手紙は、パウロが伝道活動のゆえに牢獄に囚われ、いつ処刑されるかも分からない身であった時に書かれています。
とうてい喜べなさそうな状況にあるパウロが書いたからこそ、ピリピの人たちの心に響くものだったのです。
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(ピリピ4:4)
囚われの身でありながら、喜びを忘れなかったパウロは、ピリピの信者たちもまた喜びを選び取るよう励ましています。
そして、思い煩うよりも、神に祈りなさいという良い助言も与えました。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(ピリピ4:6)
神は耳を傾けて聞いてくださるので、自分一人で悩む必要はないし、神に祈れること自体が幸いであり、感謝すべきことです。(詩篇40:1)
また、神を愛する者のために、逆境からさえも益をもたらしてくださることを感謝できます。(ローマ8:28)
昨日も書いたとおり、この「思い煩う」という言葉には、「心が反対方向に引っ張られる、心が定まらず分裂している」という意味があります。
心配な状況に焦点を合わせて思い煩い、心がバラバラになるよりも、問題解決を助けてくださる神に焦点を移した方がずっといいのです。
それは、現実逃避ではなく、祈って思い煩いを委ねることのできる神がいるという現実に目を向けることです。
そもそも、困難にだけ目を向けて、「現実を見ろ」と言うのは、あまり現実的なものの捉え方ではありません。
それは、「困った時にはいつでも連絡して」と言ってくれる、子ども思いの父親の存在を忘れているか、無視しているようなものです。
「現実」には、困難だけではなく、さまざまな側面があります。
また、思い煩うのは、自分にできないことをやろうとしているからです。
それよりも、自分にできることに集中し、自分にできないことについては、祈って神に委ねましょう。
その方が、思い煩っている時よりも、問題の解決や状況の改善がしやすくなります。
そして、心から神に祈った時、私たちの理解をはるかに超えた平安に包まれます。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ4:7)
この「守る」という言葉は、守備隊(駐屯軍)による守りを意味しており、どんな悪いものも私たちの心に侵入できないような守り方です。
そのような平安がほしいなら、まずは神に目を留め、感謝をもって祈りを捧げましょう。
そして、祈りに耳を傾ける神がおられるという現実以外にも、心に留めるべき現実があります。
最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。(ピリピ4:8)
私たちのまわりには、思い煩いの原因がたえずあふれているし、悲しい気持ちにさせるような状況が完全に消えることはありませんが、いいことだって、たくさんあります。
そのような感謝すべき現実に気づいて、それを心に留めること、そして何よりも、私たちを愛してやまない神に焦点を合わせること・・それが、どんな状況にあっても、常に喜びに満ちた人生を送る鍵だと、パウロは言っているようです。
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喜びとは、幸せな気分と同じではありません。私たちは多くのことで幸せな気分になれないことがあります。にもかかわらず喜びはなくなりません。なぜなら喜びは、神が私たちを愛しておられることを知っていることから来るからです。私たちは、ともすると、悲しいときは喜ぶことができないと考えがちです。しかし、神を中心とする人の生活では、悲しみと喜びは同時に存在することが可能です。(ヘンリ・ナウエン『いま、ここに生きる』)