聖書を生きてみる
聖書を読んでいるけれど、喜びを感じない、幸せじゃない、感激がわかない、という人のために、詩人・八木重吉からのこんなアドバイスがあります。
聖書を生きるとは、聖書に書かれていることをただ読むのではなく、実践して体験することです。料理本をいくら読んでも、そこに書かれた料理を実際に作ってみなければ、その味がわからないように、聖書も、読むだけでは単なる知識にすぎません。
ところで、皆さんの家に鏡はありますよね。私はいつも、朝起きた時に鏡を見て寝癖を直したりしますが、きっと皆さんも、何かを直したり整えたりするために鏡を使っていることでしょう。
鏡を見て、髪の毛がボサボサだと気づいたら、そのまま何もせずに、仕事や学校へ行くでしょうか。顔にひどい湿疹があることに気づいたら、何も処置せずに放っておくでしょうか。鏡を見て何かに気づいても、何もしないのでは、鏡を使う意味がありません。
鏡が私たちの顔を映し出すように、正直な心で聖書を読むと、私たちの魂の姿が見えてきます。
忙しい、めんどくさいなど、どんな理由であれ、鏡で見たものを無視していては、何も変わりません。いえ、むしろ悪い方向に変わることだってあります。鏡を見るのは、自分を客観的に捉えて、変えるべきところを変えるためです。
アメリカの大衆伝道者ドワイト・ムーディーは、こんな言葉を残しています。
聖書には私たちの人生を変える言葉がたくさん書かれていますが、実践しなければただの知識となってしまいます。
イエスは、十字架にかけられる前の最後の晩餐で、弟子たちの足を洗いました。ほこりっぽい道をサンダルで歩いていた当時、汚れた足を洗うのは奴隷の仕事だったので、弟子たちはびっくりしましたが、イエスは謙遜の教えを自ら実践されたのでした。
その後、イエスはその意義を弟子たちに説明した上で、こう言いました。
それまでも、弟子たちは謙遜についての教えを耳にしてきたし、ここではイエスによる実践の手本まで目の当たりにしましたが、その教えがわかっているだけでは十分ではありません。弟子たち自身がそれを行った時に、幸いなのです。
イエスは、有名な山上の説教(山上の垂訓)の最後にも、それを実践することの大切さを教えています。
イスラエルの川には、雨季の冬が来ると洪水が起きて、両岸に土砂が堆積し、乾季の夏には水が涸れるところが多くあるので、そのような場所で起きた話なのかもしれません。
そうやって平らに堆積した土砂の上に建物を建てる方が、岩の上に建てるよりもずっと簡単です。しかし、冬の雨が降り出すと、再び川に水が流れ出すどころか、洪水が起こるので、土砂の上に建てられた家は倒壊してしまいます。
聖書の言葉を実践するのは必ずしも簡単ではなく、むしろ難しいこともよくありますが、ただ聞くだけではなく実践することによって、岩のように頑丈な土台を築けるということです。
もし、自分の人生には幸せ、喜び、感激が欠けていると思うのなら、八木重吉のアドバイスに耳を傾け、聖書を生きてみてください。まずは、「ほんのちょっとでもいい」ので。