シェア
私たち人間は、「神だったら、こうするべき」という自分の考えによって、神のやり方を裁くことがあります。それは単純に、神のやり方や知恵が私たちのやり方や知恵をはるかに超えているのに、自分を神と同等か神の上の立場に置こうとしているだけなのですが。(イザヤ29:16; 55:8-9) 「神だったら、こうするべき」と言う時、それはそもそも、その人には神を信じる気持ちなどないからという場合がよくあります。イエス・キリストも、十字架にかけられた際に、自分を神の子と信じない人たちから、「も
クリスチャンにとって、春と言えば、イエス・キリストの受難に思いを寄せながらイースター(復活祭、今年は3月31日)を待ち望む季節です。 受難とは、イエスが裁判と処刑によって、計り知れないほどの苦痛を精神的にも身体的にも味わったことを言います。裁判は短時間のうちに何度も行われており、祭司長や議員たちはイエスが死刑に値するとしましたが、ローマの支配下にある彼らには処刑の権限がなかったため、総督ピラトのもとにイエスを送りました。 ピラトは、「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみ