「この人を見よ」
クリスチャンにとって、春と言えば、イエス・キリストの受難に思いを寄せながらイースター(復活祭、今年は3月31日)を待ち望む季節です。
受難とは、イエスが裁判と処刑によって、計り知れないほどの苦痛を精神的にも身体的にも味わったことを言います。裁判は短時間のうちに何度も行われており、祭司長や議員たちはイエスが死刑に値するとしましたが、ローマの支配下にある彼らには処刑の権限がなかったため、総督ピラトのもとにイエスを送りました。
ピラトは、「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためである」とわかっていたし、イエスには「なんの罪も見いだせない」ので、イエスを釈放しようと試みました。(マタイ27:18; ヨハネ18:38)
しかし、祭司長たちからの反対にあったので、死刑よりも軽いムチ打ちでなんとか済ませようとしたのです。兵卒たちはムチで打つだけではなく、イバラの冠をイエスの頭にかぶらせ、平手打ちにし、愚弄し続けました。
ピラトは、「この人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうため」、そのような状態のイエスを人々の前に引き出し、「見よ、この人だ」(この人を見よ)と言いました。(ヨハネ19:4-5)
これだけ痛めつけられて、惨めな姿のイエスを見せたら、ローマに反逆するような「ユダヤの王」などではないことが皆にわかり、釈放に同意するだろうと考えたようです。
ところが、ピラトの思い通りにはならず、「祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで『十字架につけよ、十字架につけよ』と言った」のです。(ヨハネ19:6) 他の福音書を見ると、指導者たちだけではなく、彼らに扇動された民衆もそうしたことがわかります。
「この人を見よ。」 ・・まるで、神がピラトの口を通して、しかも彼が意図したよりも深い意味で、私たち一人ひとりに語っておられるようです。私が民衆の一人であったなら、ちゃんとイエスに目を向けたでしょうか。その痛ましい姿の中に、何を見たでしょうか。
その何百年も前に、預言者イザヤは「この人」の受難の様子を預言しており、それが後に「苦難のしもべの歌」と呼ばれるようになりました。
(詳しくは、『イザヤが預言したキリストの受難』を読んでください。)
「この人を見よ。」
「この人」・・惨めな姿となり、人々から見捨てられ、嫌われ、暴虐な裁判によって処刑された人は、私たちすべての罪を負って十字架にかかることをいとわないほど、私たちを愛された方です。「この人」の姿を見るなら、神の愛の深さがよくわかります。
また、私たちは生きているかぎり、さまざま苦難や病気、事故、死別、孤独、不安、混乱などに悩み、涙することも多くありますが、「この人」は私たちの苦しみや痛みを知り、思いやってくださる方です。
神が自分を本当に愛しておられるのか、また、私たちの苦しみや痛みを本当に気にかけておられるのかがわからなくなったなら、どうぞこの苦難の人イエスに目を向けてください。
神は今も、私たちにおっしゃっていることでしょう。
「この人を見よ」と。