多彩は生き様
広大な土地に延々と植わっているバナナ。収穫しても収穫しても積みげられていくバナナ。終わらない。積み上がっていくバナナ、重いバナナを担ぎながら終わらない労働に励む。もう日暮れだ。今日も帰れない。仕方がないからラムでも飲もう。朝日が見えてきた。バナナの収穫は終わらない。
仕方がないからラムでも飲もう。
1950年代のグアテマラのバナナ農家の惨状を歌ったものらしい。同じものをたくさん栽培することによって生産性を高め、利益をさらに生み出そうとた結果労働者にしわ寄せがやってきた。当時のグアテマラのバナナ栽培は同国の収益の大部分を占めていたといわれていた。しかし現在ではあまりバナナの話は聞かない。現在はコーヒー栽培の方が主流である。なぜそうなったのか。1本のバナナが病気になったのである。その1本から病気は瞬く間に広まり、一瞬にしてグアテマラのバナナ産業は壊滅してしまったそうである。
同じような話は1850年ごろのアイルランドでも起こっている。イギリスからやってきたジャガイモに病気が見つかり、ジャガイモの病気は止められることができず2年が経過。主食を失った人々は食べるものを得ることができず多くの方々がなくなってしまったそうである。耐えきれずイギリスやニューワールド「アメリカ」に移り住んで行った人々も多かったという。これを契機に病気を未然に防ぐ農薬の開発が加速していったともいわれている。
同じものをたくさん作ることが「農業」の始まりであるのであれば、もしかしたらその興りは北インドにあるのかもしれない。自生していた多種な玉ねぎを栽培しやすいものを選別して品種を絞りたくさん植えていったのが農業の始まりの一つだと主張する人もいる。結果玉ねぎの品種は少なくなってしまったそうである。
少し前から「サブジの会」というものを毎月開催している。様々な季節や土地で取れる野菜や植物は一つではなく、たくさんある。人工的に同じものをたくさん栽培しているのではなく、自然に寄り添った形で様々な野菜を少量ずつ作っている農家が全国には結構いる。少量多品種を作っていくことが大きなものに頼らなくても良いような気がしている。
スパイスも組み合わせで無限大に広がっていく、その時々の季節の野菜や人々に合わせてアレンジやブレンドやレシピを作っていく。サブジの会を続けていったらそんなことが断片的に広がっていくのではないだろうか。
冒頭のグアテマラのバナナ農園のことを歌ったのはハリー・ベラフォンテである。活動家、俳優、歌手と多彩な顔を持つ彼の生き様も多様な生き方をみせてくれたのではないだろうか。