道元上人著『正法眼蔵』の「道心」は、称名念仏(弥陀仏への念仏ではない)が中心であり、そのことは善導大師や法然上人の浄土門の「五種正行」,
即ち「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」に類似しているところが少なからずあるので、「道元的五種正行」を考えてみたい。
先ず「道心」では次の文言から始まる、
道元上人は、何よりも先ずは道心を発すことが大事であり、それが仏教信仰における第一歩であるとしている。
道心というのは菩提心のことだが、道元上人によれば道心(菩提心)を領解している人は稀であり、見せかけの道心を持つ者がいたり、真実の道心を持っていてもそういう人は世に出てこない故に、知ることができないことがあるという。
道心を知るには仏の説かれたこと法を学び、菩提心の真実の有り様を昼夜に渡って願うことが重要であると云っている。
考えてみるに偽りの道心者にならないためには、菩提心の前に種々の心を発す必要がある。
『維摩経』に、
先ずは直心・深心であり、その後に菩提心が説かれている。不諂の直心から功徳を集める心に繋がり菩提心が発れば真実の菩提心となる。
とはいえ、上記の道元上人の説示によれば末法には真実の菩提心を発している者は稀なので、ともかく無常を感じて己を空しくして、仏法こそを第一義として、自己を捨ててしまえばいいと云う。
法然上人の場合では、
三心は浄土門の信仰者が発す願往生心を三つに分けたもので、
『勧無量寿経』に説かれる。
上述した『維摩経』の三心の浄土版であり、これらを発すことで浄土門への信仰が可能となる。
また法然上人の『一紙小消息』には、
浄土の法門をこの世における最高の悦びとせよとして、道元上人が「あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。」と云うところと類似している。
さて続いて、『正法眼蔵』には「称名」が説かれる、
仏・法・僧の三宝を畢竟、命が尽きるまで称名し続けることをせよという。ここで云われている称名の説示は浄土門の往生の様相そのものかと思うくらいであり、「称名正行」に極めて近い。さらには浄土門の「四修」という教説があり、これにも類似している。
法然上人の『選択本願念仏集』に、
法然上人は善導大師の説示を引いて、何はなくとも念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず称名を命終の時まで絶え間なく続けよと説かれており、道元上人も善導大師の影響を受けておられる可能性があるが、道元上人の場合は中有の時も、さらにはもしまた人として生まれ変わる際の母胎にいる時でも称え続けよとの仰せで、徹底しておられる。
また続いて、『正法眼蔵』には、
これは命終時の用心であろう。称名すれば必ず天界往生が約束されるという。道元上人は浄土門には否定的であるようだから、浄土ではなくあくまでも天界往生を念頭においておられる。この天界はおそらく弥勒菩薩の在ます兜率天であるのではなかろうか。『正法眼蔵』の十二巻本の「一百八法明門」には兜率天にて釈尊が降誕の前に「一百八法門」が説かれており、「いま初心晩学のともがらのためにこれを撰す」と云っておられるから、道元上人ご自身も未来仏の弥勒菩薩の下で聞法を願っていたのではないかと考えられる。
命終時の用心について浄土門では善導大師による『往生礼讃』の「発願文」の中に、
さらに「仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸仏菩のおこなはせたまふみちなり」という箇所は、以下の善導大師の『観経疏』の文言に類する、
道元上人が善導大師や法然上人の思想を知らないことはないと考えられるので、浄土門をヒントにしている可能性は大いにある。
そして「道心」の結句に向って以下のことが説かれる、
ここでは、始めに仏への三種供養が説かれるが、これも善導大師が「讃歎供養正行」を念仏の助業として取り上げている点も浄土門に近い。
そして、道元上人は『法華経』を受持・書写して供養せよとしており、善導大師の「読誦正行」として「浄土三部経」に専念せよというところに類似しているように思う。
礼拝については仏への礼拝ではなく『法華経』への礼拝を示しておられ、浄土門が弥陀への礼拝であることと比して、興味深い。
浄土門での「観察正行」に対する行は上記から云えば、坐禅になるであろうか。
善導大師の『観念法門』に、
上記のことから、道元的五種正行を考えるならば、
①読誦正行→『法華経』の受持・書写
②観察正行→袈裟をかけて坐禅
③礼拝正行→『法華経』への法に対する礼拝
④称名正行→「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」の称名、もしくは「南無帰依仏」のみでも可
⑤讃歎供養正行→三種供養
無理に当てはめたような箇所もあるが、一応の対応を考えみると上記のようになるかと思う。
浄土門では、「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」の中で、「称名」を正定業、他を助業として「称名」を最も重要視するが、道元上人の場合はどの行も同列に扱っているようである。「坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり」と云って、「只管打坐」を標榜する道元上人故に坐禅を最も重要視しているようにも考えられるが、前半にあれだけ「称名」を強調して「これ諸仏菩のおこなはせたまふみちなり」ということであるから、浄土門の「称名」のように「坐禅」を重要視しているようにも見えない。
「道心」では道元という方がこれだけ「称名」を強調しているのも、法然上人の易行道によって布教を成功させていたことを無視できなかったのかもしれない。