極楽浄土の荘厳~七宝と八功徳水を考える~
極楽浄土の荘厳
浄土三部に説かれる阿弥陀仏の世界、即ち極楽世界には「七宝」や「八功徳水」などという娑婆世界に住む衆生にとっては、およそ荒唐無稽とも言えるような表現が目に付く。このような表現があることから浄土を信じることができず、浄土などは妄想の産み出した世界観であるというような考えを持ってしまう。
しかし経典や先徳の解釈を拝見すると実はそのような浄土の表現は古代インドの人々を導くための表現であって、時代の下った理性的に文化に進んだ現代人にはなかなか理解し難い内容である。現代にはこのような荘厳を強調するような方法ではなく、浄土の本質に則した表現方法に依るほうが理解しやすく思える。私自身も始めは浄土の煌びやかな表現に馴染めずに苦労したが、先徳の釈文、特に現代人に近い時代、近現代の先徳の解釈を参考にすると浄土の装飾は全て仏法の思想などを譬えたものであることが理解できるのである。
経典に見られる七宝と八功徳水
浄土三部経には浄土の荘厳の代表的なものとして、「七宝」や「八功徳水」がある。
『無量寿経』には
「七宝の荘厳自然の化成なり。」
「八功徳水湛然として盈満せり。」
『観無量寿経』には
「一一の樹の高さ八千由旬なり。其の諸の宝樹、七宝の華葉、具足せずといふことなし。」
「極楽国土に八池水あり、一一の池水、七宝の所成なり」
『阿弥陀経』には、
「また舎利弗、極楽国土には、七宝の池あり。八功徳水、その中に充満せり。」
※①七宝…金・銀・瑠璃・頗瓈・硨磲・赤珠・碼碯
②八功徳水…澄浄、清冷、甘美、軽軟、潤沢、安和、除飢渇諸患、長養諸根
経典に説かれるような七宝から成る樹や飲むだけで飢えや病い除いて感覚器官を育て向上させる水などは現実離れしており想像だにもできないものである。
椎尾弁匡博士の釈
上記のような経文の意味は何であるのかを仏教学者にして浄土宗僧侶の椎尾弁匡博士が『極楽の解剖』で云っている、
この経文だけではこれは一種特異な見方であると感ぜられるかも知れないが阿弥陀経だけでなく、その前後一々の経典もまたかように見るべきであつて、その読み方というものは原始仏教を見ればすぐ判る。例えば阿含サンユッタ(南方仏教の相応阿含)には、七宝として金銀等を列ね八功徳としては海の水を引用してそれが河水とどんなに違うのか、それは一切の穢れを受けないで一切を清めて行く力だということが書いてある。それを更に別の読み方で読む時には、そこの七宝ということは知的研究の七つの心持ち、条件で、健康、平安、落着き、記憶等のととを意味し、八功徳ということはそれを実行に現わす所の八つの道で、正しく見、思い、語り、行い、続け、考え、励み、進むの八正道を意味する。それ故後世の経文には鳥の音、林の風に七菩提分、八聖道分の響きありとするも同じ意味である。
経文というのは、みなかように読むようになっているのだから、原始仏教の言葉になおしてずっと調べて行くと、先きに述べたような道徳的、研究的の態度が判る。それをただ八功徳と書いてあるから、ただ美しい言葉で飾ったにすぎぬというように扱うのでは、経文の真の意が失われることになる。やっと確かな研究方法や実行方法がその中に、あの簡単な言葉の中に述べられていることを知るべきである。そしていろんな言葉が表現的になっている。道を行くには四つの宝を持つとか、それが七重の並木になっているとかいう如きは、皆仏教の経文を読む読み方なのですから、そういうふうに読むべきである。
七宝は七覚支であり、八功徳水は八正道の芸術的文芸的表現であるから表面上の言葉のみで判断してはならないという。確かに仏教の経典において、古くから譬喩を用いた説示が散見される。それが大乗仏典となるとさらに多くなっていることは明らかである。
※七覚支……擇法・精進・喜・軽安・定・捨
八正道……正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
この両項目は「三十七道品」と云われる仏教の覚りを目指すための修行科目に含まれるものである。
釈迦如来と善導大師の言葉
『観無量寿経』では浄土の観察法が説示される直前に次のような言葉が説かれる、
われ、いま、汝のために、広くもろもろの譬えを説き、また未来世の一切の凡夫、浄業を修せんと欲する者をして、西方の極楽国土に生まるることをえしめん。
この後に極楽の観察法が様々に示され、その中には地想観・宝樹観・宝池観・宝楼観などの浄土の荘厳の様子が記載されているのである。
荘厳は「広くもろもろの譬えを説き」であるから、煩悩から脱することのできない凡夫のための浄土観であることが知られる。
また浄土教の大成者であり、弥陀の化身と謳われた善導大師も極楽浄土は快楽の世界ではないと云っている、
『観無量寿経疏』では、
「西方は寂静にして無為の楽」
「彼の涅槃の城」
『法事讃』では、
「極楽は無為涅槃の界」
浄土は仏国土であり、僧伽(サンガ)の理想が顕れた世界である。当然にそのような世界は煩悩を滅した涅槃世界である。釈尊在世のインドでは人々は天界に生まれ変わることを理想としていたことを、仏教が説法などにうまく活用し、終局目的である涅槃の世界を説き示していたであろうと考えられる。
浄土は仏教徒が修行を進める世界
浄土の荘厳は仏教の様々な思想や修行のあり方を譬喩として示しているのであるから、そこは仏教徒が覚りを得るための理想的環境の世界である。善導大師が云うように、浄土は煩悩によって惑わされない世界、自ずから覚りへの修行科目を実践できる世界であるから、極楽浄土は娑婆の欲望を叶えるためある世界ではなく、菩薩の階梯を進める環境なのである。