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預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~

預流果とは


 仏教では覚りに階梯があり、上から阿羅漢(無学果)、阿那含(不還果)、斯陀含(一来果)、須陀洹(預流果)となっている。預流果とは覚りにおいて一番下の位で、信仰が決定して不退転(地獄・餓鬼・畜生という三悪道の運命はまぬかれ、 決定して正覚に向うもの)となる階梯。
 いわゆる聖者の流れに入った境地で、終局的に解脱が決定した状態になるをいう。ここまでくれば修行も先ずは安心といったところである。
 では一体この預流果(須陀洹)の境地に至るにはどのようなことを行えばよいのかが仏教を信仰する者にとって大いに気になるところだが、それは仏の説法の中に示されているので伺ってみたい。

雑阿含経

 『雑阿含経』では以下のようにに説かれている、

 比丘たちよ、ここに聖なる弟子があって、仏にたいして絶対の浄信を成就する。いわく、かの世尊は、応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊にましますと。 
 また、法にたいして絶対の浄信を成就する。いわく、法は世尊によりて善く説かれた。それは現に証せられるもの、時をへだてずして果報あるもの、〈来たって見よ〉というべきもの、よく涅槃に導くものにして、かつ、智者のそれぞれ自ら知るべきものであると。 
 また、僧伽にたいして絶対の浄信を成就する。いわく、世尊の弟子衆は善く行ずる者である、世尊の弟子衆は直く行ずる者である、世尊の弟子衆は正しく行ずる者である、世尊の弟子衆はうやうやしく行ずる者である。すなわち、四双八輩がそれであって、それは、尊敬に値し、尊重に値し、供養に値し、合掌に値し、世間無上の福田であると。 
 また、聖者の愛楽するもろもろの戒を成就する。それは、完全にして、混りものがなく、純潔にして、曇りがなく、自由を与え、智者の讃えるところ、もはや執するところなくして、よく三昧にいたらしめる。 
 比丘たちよ、聖なる弟子は、この四つのことを成就するとき、預流となって、もはや地獄ゆきの運命をまぬかれ、決定して正覚に向うものとなるのである。

『阿含経典 ②』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 254~255頁

 つまり、預流果になるには、
①仏への絶対なる信
②法への絶対なる信
③僧への絶対なる信
④戒への清浄なる行
上記の四つの条件が満たされる時である。
 ここで、着目すべきは仏教の主軸となる四諦や十二縁起などを預流果の条件とはしていない。三宝への帰依と戒の実践が条件であり、それによって不退転の聖者の位へと到ることができるようである。
 最終的な修行法では四諦や十二縁起が必要であろうが、不退転になるためには特にそれらが必須条件ではないことが解る。仏教、特に原始仏教では四諦や十二縁起といった思索的、観察的な行法がよく取り上げられるが、ここで見られるように、信に重きを置くことがあるというのは、見落とされがちであろう。
 では、預流果の四条件を具体的にひとつひとつ窺ってみたい。

①仏への絶対なる信

 第一の条件は仏に対してであり、次のような信を起こす必要がある。
応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊という仏の十号への確信である。
十号の意味を略説すると以下である、

1「応供」……供養に応ぜられる人、供養を受ける資格のある人という意味。
2「正等覚者」……正しくよく覚った者という意味。
3「明行足」……明(智慧)と行(体験)を具足した者の意味。
4「善逝」……如実に彼岸に去り、再び生死海に退没することのない者の意味。
5「世間解」……世間をよく理解している者の意味。
6「無上士」……この上ない最上最高の人という意味。
7「調御丈夫」……調御せらるべき丈夫の者という意味。すべての人をよく訓練する御者のこと。
8「天人師」……神々や人びとの師すなわち三界の大導師という意味。
9「仏」……自ら覚り他を覚らせる者である。
10「世尊」……世間から尊敬され、世間で最も尊い人とされる。

『仏教用語の基礎知識』水野弘元 春秋社 80~84頁参照

 上記のように仏への信を決定させることも一通りの思考が必要となってくるので、決して簡単なことではない。

②法への絶対なる信

 第二の条件は、仏の教えは必ず果報があり、涅槃へ導くものであるとして微塵の疑いも持たない。
『大乗起信論』では以下のように説かれる、

 仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること。つねに〔法を〕思いうかべつつ、諸種の究極完全な行を実践するからである。

『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道〔訳注〕岩波文庫269頁

 常に仏の教えを忘れずに実践していくことであり、他の教えや学問などを眼中に入れず座右としていくことが必要である。凡夫はすぐに世俗的な考えに流されてしまう可能性がある。

③僧への絶対なる信

 第三の条件は、仏の弟子たちへのつまり仏教教団の構成員に対して、尊敬、尊重、供養、合掌し、福田であるというように接する。
 ここで着目すべきは、仏の弟子たちというのは「四双八輩」であるとする。「四双八輩」は「四向四果」とも云われ、先に述べた「阿羅漢、不還果、一来果、預流果」に加え、各階梯に向う者たちも入るのである。
 即ち、「預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅向・阿羅漢果」の八つの階梯をいうのである。
 このうち「預流向」は着目すべきで、この境地はまだ預流果に向っている状態で聖者の流れに入っておらず不退転ではない者たちであるが、「預流果」になるには「預流向」の修行者への敬意も忘れてはならないとしている。
 つまり、「預流果」の者は自分より下の階梯である「預流向」の者たちへの慢心はないということである。これはなかなか容易ではない。修行が進むと多くの者は慢心を起こして下の者たちを見下してしまう。
 「預流果」を謳っていながら、新発意の修行者を見下していたら、その者は「預流果」にはなっていないことになる。これは覚りへの良い判断材料といえる。

 『郁伽長者所問経』にも、

 ここに、在家の菩薩が僧団に帰依するとは、もし預流の比丘や一来や不還や阿羅漢や凡夫や独覚乗の人々や大乗の人々を見たならば、それらの一人一人に対して尊崇の心をもち、恭敬の心をもち、立ち上がって出迎える労をとり、あたたかいことばをかけ、その身のまわりを右にめぐる。

「郁伽長者所問経」『大乗仏典9 宝積部経典』長尾雅人・桜部健〔訳〕中央公論社 238~239頁

 凡夫に対しても尊崇・恭敬の心を持つことが菩薩の態度であるとしている。

④戒への清浄なる行

 第四の条件は戒の成就である。声聞乗であれば具足戒、菩薩乗であれば円頓戒である。具足戒は二百五十戒、円頓戒であれば十重四十八軽戒となり、時代の下った現代では完全に備えることは容易なことではない。

円頓戒における十重四十八軽戒を例に上げると、

十重禁戒とは、㈠不殺生、㈡不偸盗、㈢不貪婬(不邪婬)、㈣不妄語、㈤不酤酒(酒を売らない、他に飲ませない)、㈥不説過(他の過失を説かない)、㈦不自讃毀他(自らほめ他をそしることをしない)、㈧不樫法財(教法や財物を惜しまない)、㈨ 不瞋恚、㈩不謗三宝(仏法僧の三宝をそしらない)

『仏教用語の基礎知識』水野弘元 春秋社 215頁

 おそらくは十重禁戒を成就させることは容易でないからこそ懺悔がある。
 浄土教の善導大師や法然上人などは周りから見れば戒を完全に保っているように窺えるが、本人たちは成就できないとしており、自らを凡夫と称している。
 そう考えるといずれにしても「預流果」への到達は厳しいものとなる。

預流果は自覚できるか

 これまで「預流果」の条件を見てきたが、簡単に思える四つの条件も細かく検討していくと、すべて成就させることは特に現代においては難中の難であろうと思う。現代人は自我が膨れ上がった状態にあり、「預流果」のような自我が抑えられて仏・法・僧・戒への忠心となることは極めて難しいと考えられる。

 しかし、仏・法・僧・戒に対して不放逸であれば絶対に成就できないわけではないであろう。では成就した時にどのようにして自覚できるのか。「預流果」を目の当たりにすることは可能であるのかが知りたくなるのである。

預流果の自覚を説く『遊行経』

『遊行経』には、四つの浄信を得た境地を「法鏡」と名づけ、次のようなことを目の当たりにすると云っている、

まことに、アーナンダよ、これが〈法鏡〉と名づける法門であって、よくこれを具足したる聖なる弟子たちは、もし欲するならば、それぞれ自己について、〈わたしには、地獄は滅し、畜生道は滅し、餓鬼道は滅し、堕地獄・悪趣は滅して、いまや、わたしは預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう〉ということを得るであろう

『阿含経典 ③』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫 351~352頁

 預流果の自覚ありというように考えられるが、預流果の自覚が凡夫が考える自覚と同じかといえばおそらく違うだろう。

預流果の非自覚を説く『金剛経』

『金剛経』に説かれているのは預流果は自覚しないということ、

さて、スプーティよ、どう思うか。 預流のものに『自分は預流果に達した』という考えが生じるであろうか」
スプーティは答えた。
「いいえ、世尊よ、そんなことはありません。預流のものには『自分は預流果に達した』という考えは生じません。なぜかといいますと、世尊よ、彼はいかなるもの(法)をも得ることはないからです。だから、預流のものと呼ばれるのです。―(彼は)色形(の法)を得ることはありません。声も、香りも味も、触れられるものも、心の対象(法)も得ることはありません。だから、預流のものと呼ばれるのです。世尊よ、もし預流のものに『自分は預流果に達した』という考えが生じるなら、彼には、かの自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう」

『大乗仏典1』長尾雅人〔訳〕中公文庫 25頁

 上記から伺うと自分が「預流果」になったても、「預流果」を自覚しないようであり、もし「預流果」という自覚があれば、自覚しているという自我が残っているのでそれは「預流果」ではないというのである。
 経に「自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着」というのは、仏・法・僧・戒へ絶対の浄信を持っている者が、我相(自我)・衆生相(凡夫)・寿者相(生滅)・人相(主客)の四つの境界を見ることはないということである。
 仏への浄信を持つ者は「我相(自我)」に執着はないであろうし、法への浄信を持つ者は「寿者相(生滅)」を見ないであろうし、僧への浄信を持つ者は「衆生相(凡夫)」を想わないであろうし、戒への浄信を持つ者は「人相(主客)」を分けないであろうというのである。
 

 したがって「預流果」の者の自覚は自覚無き自覚であり、『遊行経』の「わたしには、地獄は滅し、畜生道は滅し、餓鬼道は滅し、堕地獄・悪趣は滅して、いまや、わたしは預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう」というのは、『金剛経』でいうところの「色形(の法)を得ることはありません。声も、香りも味も、触れられるものも、心の対象(法)も得ることはありません。だから、預流のものと呼ばれるのです。」であり、「我相(自我)・衆生相(凡夫)・寿者相(生滅)・人相(主客)」を分別しなくったために至った「不求自得」の世界であるところを指して、「いまや、わたしは預流となり」と云い、「預流のものと呼ばれる」と云っているのである。

 つまり預流果は自覚にして非自覚であり、非自覚にして自覚の境地、それは凡夫からでは窺い知ることのできない聖者の位であって、日夜預流に向って浄信を培っていくことで十分であり、その先に「不求自得」によって至る境地なのだから、遮二無二に目指す世界ではないということで結論付けておこう。

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