『法句経』(『ダンマパダ』)について
『法句経』(『ダンマパダ』)は釈尊の発せられた短い詩を集めた経典であり、思いついた時にどこからでも気軽に開いて拝読することができる聖教である。
「法句」とはいかなる意味があるかというに、仏教学者にして浄土宗僧侶である荻原雲来博士は次のように云う、
『法句経』は「涅槃の道」を教える経典であり、衆生を涅槃へ到らせるため仏教の立脚地から釈尊が説かれたものであるという。
続けて雲来博士は、
と云って、日常に拝読して指針とすべきであるとしている。
ここでは『法句経』の中で私自身が感銘を受けた、また指針としたい文句などを取り上げて覚え書きとして綴ってみたい。
法句178
『法句経』には珠玉の言葉が散りばめられているが、先ず私の目を引いた詩偈178番である。
『法句経』にはいくつかの訳があるが、手元にある三冊の典籍の訳を引用する。
先ずは上記に記載した仏教学者にして浄土宗僧侶である荻原雲来博士の訳である、
続いて仏教学者の中村元博士の訳は、
仏教学者で曹洞宗僧侶の片山一良博士の訳では、
ここに仏教徒としての価値観が表れている。世間一般では権力や贅沢な暮らし、人よりも上に立つことを理想として仕事や様々なことに勤めることわけであるが、釈尊が説く教えではそうではない。世俗の一切の価値よりも仏教に確信を得た境地、即ち預流の果にその重きを置くのである。(※預流果には難解な学問的解釈があるが、ここでは荻原雲来博士の註釈に従っておく)
仏教徒を自任する者が占い師の言葉ほども釈尊の言葉を聞き入れないということ
仏教に確信を得る信仰生活こそが第一義であって、そのこと以外は全て価値なきものとは言わないまでも取るに足らぬことというわけである。仏教徒を自任する方々でも、出世、年収、結婚など種々の世間的価値観に踊らされて日々を不安の中で過ごしてしまうことも多いであろうが、やはり仏教徒はブッダの言葉・教えである経典をよくよく拝読して、理想とする道を誤らないようにしなくてはならないと思う。
チベット仏教中興の祖と謳われるツォンカパ大師の『菩提道次第小論』に云っている、
ツォンカパ大師が仰るように仏教徒であるならば、毎日メディアなどに流れる占いなどを気にするくらいなら、『法句経』の一節でも読み、その教えに従ってその日一日を過ごしてみようと思うほうがよほど利益や功徳があるはずである。
極論になるかもしれないが、世間の一切のアドバイスよりもブッダの教えである経典の言葉を取るのが仏教徒の態度であると思う。
法句178の因縁譚
178番の詩偈には発せられた由縁、即ち因縁譚がある。先に取り上げた片山一良博士の『ダンマパダ 全詩解説』には詩偈全ての因縁譚を載せている。因縁譚はブッダゴーサ師が『法句経』を註釈した『法句経註』に説かれており、片山一良博士はそれを訳したものを記載している。
さてその因縁とは、
アナータピンディカ長者という方はいわゆるスダッタ長者のことであり、祇園精舎を寄進した有名な在家信者のことである。彼の息子が長者ほど仏教に熱心ではなく、心配した長者が仏や仏法に対して信仰を発させるために、小遣いという方便を用いたのである。
始めは小遣い欲しさに仏のところへ通っていたが、最後は釈尊の方便により、信仰に目覚めて小遣いなどには目もくれず仏教への確信、つまりは預流の果という不退転の境地に到ったのである。しかもそれは世界の一切の価値あるものよりも、何倍も勝れているとして、178番を発せられたのである。
『法句経』の文句を座右にする
『法句経』は荻原雲来博士が「法句の内容は各章の題号にて察せらるるが如く、仏教の立脚地より日常道徳の基準を教へたるもの」(『法句経』荻原雲来[訳註] 岩波文庫 3頁)と云うように、理解も実践もしやすいものがほとんどであり、各自が教えられると思った一節を座右として生きていくことは非常に実りあることである。
今後も『法句経』の言葉を取り上げて覚え書きとしたい。