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『法句経』(『ダンマパダ』)覚え書き①

『法句経』(『ダンマパダ』)について

 『法句経』(『ダンマパダ』)は釈尊の発せられた短い詩を集めた経典であり、思いついた時にどこからでも気軽に開いて拝読することができる聖教である。
 「法句」とはいかなる意味があるかというに、仏教学者にして浄土宗僧侶である荻原雲来博士は次のように云う、

 法句の語は大別して二種の義に解釈せらる、一は法は教の義にして法句とは釈尊の教の文句なり、又他の一は法は本体を詮し、一切万象の終極の体即ち涅槃の義、而して句の原語は元来足跡の義にして、転じて道或は句の義となりしものなれば、その原の意味にて道の義と解すれば法句は涅槃の道とも訳せらる、涅槃への道は換言すれば覚らす教の意味なり、今は何れにても可なれども、古来漢訳されて人口に膾炙せるまま法句と称へたり。
(『法句経』荻原雲来[訳註] 岩波文庫 3頁)

 『法句経』は「涅槃の道」を教える経典であり、衆生を涅槃へ到らせるため仏教の立脚地から釈尊が説かれたものであるという。
 続けて雲来博士は、

修養の亀鑑とし、道業の警策として、座右に備へ朝夕披読し、拳々服膺せば、精神の向上発展、動作の方正勤勉、処世の要術、何れの方面にも良薬たらざる無し。(『法句経』荻原雲来[訳註] 岩波文庫 3頁)

と云って、日常に拝読して指針とすべきであるとしている。

 ここでは『法句経』の中で私自身が感銘を受けた、また指針としたい文句などを取り上げて覚え書きとして綴ってみたい。

法句178

 『法句経』には珠玉の言葉が散りばめられているが、先ず私の目を引いた詩偈178番である。
 『法句経』にはいくつかの訳があるが、手元にある三冊の典籍の訳を引用する。

先ずは上記に記載した仏教学者にして浄土宗僧侶である荻原雲来博士の訳である、

地上を統治するよりも、また天に往くよりも、一切世界の王位よりも預流の果を勝れたりとす。
預流の果―仏教に確信を得ること。
(『法句経』荻原雲来[訳註] 岩波文庫 52頁)

続いて仏教学者の中村元博士の訳は、

大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一段梯(預流果)のほうがすぐれている。
(『真理のことば 感興のことば』中村元〔訳〕 岩波文庫 35頁)

仏教学者で曹洞宗僧侶の片山一良博士の訳では、

地上の絶対権力よりも 天上に趣くよりも
一切世界の支配よりも 預流の聖者の果はまさる
(『ダンマパダ 全詩解説』片山一良 大蔵出版 256頁 )

 ここに仏教徒としての価値観が表れている。世間一般では権力や贅沢な暮らし、人よりも上に立つことを理想として仕事や様々なことに勤めることわけであるが、釈尊が説く教えではそうではない。世俗の一切の価値よりも仏教に確信を得た境地、即ち預流の果にその重きを置くのである。(※預流果には難解な学問的解釈があるが、ここでは荻原雲来博士の註釈に従っておく)
 

仏教徒を自任する者が占い師の言葉ほども釈尊の言葉を聞き入れないということ

 仏教に確信を得る信仰生活こそが第一義であって、そのこと以外は全て価値なきものとは言わないまでも取るに足らぬことというわけである。仏教徒を自任する方々でも、出世、年収、結婚など種々の世間的価値観に踊らされて日々を不安の中で過ごしてしまうことも多いであろうが、やはり仏教徒はブッダの言葉・教えである経典をよくよく拝読して、理想とする道を誤らないようにしなくてはならないと思う。
 チベット仏教中興の祖と謳われるツォンカパ大師の『菩提道次第小論』に云っている、

 ボトワ御前は「たびたび思惟したなら、だんだん信じて相続がだんだ
ん滑らかになって、加持が生じます。それについて決定知を得たので、至心から帰依して、その学処〔十善など〕を学ぶときにおよそ為したすべては、仏法といわれるものになるのです。私たちは仏の智について、一番鋭い占い師ほどについても考えない」と仰るのです。「一番鋭い占い師が「今年あなたに凶事が起こることはない。私は知っている」と言うなら、〔私たちは〕安心して往く。彼いわく―「今年〔凶事が〕起こる。こういうことをしなさい。これはするな」と言うなら、〔私たちは〕努力して達成する。達成しなかったなら、「こう言われることを私は達成しなかった」と思って、心が不安になる。仏陀が「これとこれをしなさい。これとこれを成就しなさい」と制定なさったことについて〔私たちは〕信頼するのか。達成していないなら、心が不安になるのか。〔私たちは〕「法にそう説明されているものは、現在は処と時によりそういうことはできない。こういうことをすることが必要だ」と言って、仏陀のお言葉を軽んじて捨てて、自分の認識の上に直行するのです、と仰るのです。
(『悟りへの階梯 チベット仏教の原典・ツォンカパ〔菩提道次第小論〕』
ツルティム・ケサン、藤仲孝司 訳著、星雲社 101頁)

 ツォンカパ大師が仰るように仏教徒であるならば、毎日メディアなどに流れる占いなどを気にするくらいなら、『法句経』の一節でも読み、その教えに従ってその日一日を過ごしてみようと思うほうがよほど利益や功徳があるはずである。
 極論になるかもしれないが、世間の一切のアドバイスよりもブッダの教えである経典の言葉を取るのが仏教徒の態度であると思う。

法句178の因縁譚

 178番の詩偈には発せられた由縁、即ち因縁譚がある。先に取り上げた片山一良博士の『ダンマパダ 全詩解説』には詩偈全ての因縁譚を載せている。因縁譚はブッダゴーサ師が『法句経』を註釈した『法句経註』に説かれており、片山一良博士はそれを訳したものを記載している。
 
 さてその因縁とは、

《因縁》 この法は、仏が、ジェータ林(祇園精舎)に住んでおられたとき、カーラというアナータピンディカ長者の息子について説かれたものである。
 伝えによれば、かれは敬虔な長者の息子であったが、仏のもとに行くこともせず、家に来られたときも会おうとせず、法を聞こうとせず、僧団に奉仕をしようとも思わなかった。そこで長者は、「このままでは邪見をもって、地獄に堕ちてしまう」と心配し、かれにこう言った。「お前、布薩の日に精舎へ行き、法を聞いてきなさい。そうすれば、百カハーパナのお金をあげよう」と。かれは、布薩の戒を守り精舎へ行ったが、聞法による直接の効果もなく、快適な場所で眠った後、朝早く家に戻った。長者はかれにお金を与え、「お前、もし仏の前に立ち、一つの法句を学んで帰ることができたなら、千カハーパナをあげよう」と言った。かれはまた精舎に行った。しかし仏の前に立つと、一つの句だけを学び、逃げ出したいと思った。そこで、仏はかれに句が理解できないようにされた。かれはその句が理解できず、「つぎの句を学ぼう」と立ち、開いた。このようにして、かれは徐々に法の理解が深まり、「最後の句を学ぼう」と立ち、聞いているうちに、預流の聖者の境地を得た。
 翌日、かれは仏を主とする比丘僧団とともにサーヴァッティ(舎衛城)の都に入った。長者はかれを見て、「わが子は清々しい」と思った。長者は仏たちに食事の布施をした。そして、かれの前に約束のお金を置き、それを受け取るように言った。かれは拒否した。長者は仏にすべてを申し上げた。すると仏は、「大長者よ、今そなたの息子が得ている預流果は、転輪王の栄華よりも、天界、梵天界の栄華よりも、はるかに勝れたものです」と言って、この偈を唱えられた。これが法句一七八の因縁話である。
(『ダンマパダ 全詩解説』片山一良 大蔵出版 256~257頁 )

 アナータピンディカ長者という方はいわゆるスダッタ長者のことであり、祇園精舎を寄進した有名な在家信者のことである。彼の息子が長者ほど仏教に熱心ではなく、心配した長者が仏や仏法に対して信仰を発させるために、小遣いという方便を用いたのである。
 始めは小遣い欲しさに仏のところへ通っていたが、最後は釈尊の方便により、信仰に目覚めて小遣いなどには目もくれず仏教への確信、つまりは預流の果という不退転の境地に到ったのである。しかもそれは世界の一切の価値あるものよりも、何倍も勝れているとして、178番を発せられたのである。

『法句経』の文句を座右にする
 

 『法句経』は荻原雲来博士が「法句の内容は各章の題号にて察せらるるが如く、仏教の立脚地より日常道徳の基準を教へたるもの」(『法句経』荻原雲来[訳註] 岩波文庫 3頁)と云うように、理解も実践もしやすいものがほとんどであり、各自が教えられると思った一節を座右として生きていくことは非常に実りあることである。
 今後も『法句経』の言葉を取り上げて覚え書きとしたい。

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