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この一枚 #21 『The Way It Is』 ブルース・ホーンズビー&ザ・レインジ(1986)

ブルース・ホーンズビーの名曲The Way It Is。1986年にリリースされ全米チャート1位に、アルバムも年間チャート4位という新人としては桁外れの大ヒットになります。
この曲の印象が強過ぎて、その後の多彩な実績が知られていないのが残念です。グレイトフル・デッド入りやジャズとブルーグラスの融合など、常に革新を求めて自らを更新し続ける彼の音楽家人生を探ります。


一旦80年代シリーズは10枚を紹介し終わるはずでした。が、見当違いが生じて、もう一枚紹介します。
1986年にリリースされたBruce Hornsby & The Range(ブルース・ホーンズビー&ザ・レインジ)の『The Way It Is』。
いくら探してもアナログが入手できずに選から漏れていましたが、急遽先日タワレコで950円の日本版を見つけ出しました。自分としては80年代のベスト3には確実に入る、大好きなレコードであり紹介せずにはいられなかったのです。

1986年にリリースされたBruce Hornsby & The Range『The Way It Is』

1987年後楽園球場

1987年7月後楽園球場で伝説的なライブが開催されました。
当時人気絶頂のヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが来日し、取り壊し前の後楽園球場で2日間ライブを開催しました。
その年の11月には後楽園球場は閉じられて解体。翌年3月には東京ドームに生まれ変わるのです。
最後に開催されたライブは9月のマイケル・ジャクソンでした。

自分は運良くその歴史的なライブを観る事ができたのです。
絶頂期にあったヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの演奏はめちゃウマで、ルイスのボーカルやバンドのコーラス、バスドラの響きなど、驚きのプレイに観客は熱狂で足踏みし野外スタジアムは揺れに揺れたのでした。
この同年全米1位となったJacob's Ladderも歌われましたが、ブルース・ホーンズビーとその弟ジョン・ホーンズビーにより作られた曲でした。

そのブルース・ホーンズビー&ザ・レインジがオープニングアクトとして、登場したのでした。日が長い夏、屋根のないスタジアムが暮れ始めた黄昏時、ホーンズビーが歌ったこの名曲の情景とピアノの音色が忘れられず、35年以上経過しても鮮明に脳裏に浮かぶのです。

このThe Way It Isは新人ミュージシャンの曲ながら、1986年12月に全米1位を獲得したのです。
さらに彼らは翌年グラミーの最優秀新人賞をも獲得するのです。

1987年グラミーの最優秀新人賞獲得

余りにもThe Way It Isのヒットの印象が強過ぎて、一般的には一発屋のイメージを持たれる傾向があるのは残念至極です。
アルバムチャートでは最高3位、87年のアルバム年間チャートでは4位に入っており、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「Fore!」を上回っていますが、何となく弟バンドのような印象が付き纏っており、セットで捉えられ実像が伝わりにくいのもまた残念。
今回は本作の成功と今も現役感たっぷりに活躍する、ブルース・ホーンズビーの実像を深掘りしてみました。

スパイク・リーとの関係

最近、スパイク・リー映画の多くにホーンズビーが楽曲を提供していることを知り、久々に彼への関心が高まりました。
有名なのは1996年の映画「Clockers」でのチャカ・カーンとのデュエットLove Me Stillです。さらに数多くの作品に参加、最近でもNetflixの「She's Gotta Have It」(2017, 2019)や映画「BlacKkKlansman」(2018)のために新しいスコアを書き、演奏しています。

2012年の『レッドフック・サマー』ではオリジナルスコアを担当しました。

人種を超えて盟友とも言える2人

ブルース・ホーンズビーの前半生

ブルース・ホーンズビーは1954年にバージニア州ウィリアムズバーグで生まれ、今は69歳。また多くの共作をしたジョン・ホーンズビーは弟です。
バークリー音楽大学、ベン・フォールズなどを排出したマイアミ大学などの名門を1977年に卒業し、音楽的な素養は充分でした。マイアミ大学はジャコパストリアスが講師をしていたことでも知られ、ここでジャズのベースを身に付けたのかもしれません。

1980年に彼が演奏しているのを見たドゥービー・ブラザーズマイケル・マクドナルドの助けで、20世紀フォックスと作曲家として契約を結びます。
1982年にはアンブロージアの『Road Island』に参加し、ベーシストのジョー・プエルタと共にシーナ・イーストンのツアー・メンバーとなります。
そして1984年、Bruce Hornsby & The Rangeを結成し、 1985年にヒューイ・ルイスの尽力でRCAレコードと契約しデビュー作に着手します。
この時すでにホーンズビーは30歳と遅咲きの新人でした。

ヒューイ・ルイスとの出会い

ホーンズビー、プエルタの他に、The Rangeのメンバーはデイヴィッド・マンスフィールド(ギター、マンドリン、バイオリン)、ジョージ・マリネッリ(ギター)、ジョン・モロ(ドラム)。

ホーンズビーはデビューアルバム制作に際して、ヒューイ・ルイスにプロデュースを依頼します。ルイスは前年の1985年には映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌Power of Loveが全米1位の大ヒットを記録するなど、全盛期でした。

2人の出会いは1981年に遡ります。ルイスはLet The Girls Rockを聴いて気に入り、当時制作中だったアルバム「Sports」に収録したいと、ホーンズビーに申し出ます。
しかしブルースとジョンのホーンズビー兄弟は、デビューの準備のため出し惜しみをし、その曲をルイスに渡しはしなかったのです。

さて、多忙なルイスは全面的なプロデュースは断ったものの、3曲を限定的にプロデュース。Down the Road Tonight(B-2)にはハーモニーボーカルとハープで参加しました。
他は「The Nightfly」等のエンジニアで知られるエリオットシャイナーとホーンズビー自身がプロデュースをしました。
ジャズ的コードを取り入れ、シンコペーションを多用したりと彼の独特なピアノスタイルも注目されました。ただ、本作のピアノの音像に関してはキース・ジャレットのようにしたいという彼の要望はシャイナーに却下されて、実際はこの明るく強めの音に至ったそうです。
本作も音のいいアルバムですが、エリオットシャイナーと聞いて納得感がありました。

その後ホーンズビーは次のルイスからの依頼にはノーと言わず、Jacob's Ladderを提供。翌年97年に「Fore!」に収録され全米1位のヒットなるのです。

苦戦したデビューアルバム

1986年4月デビューアルバム『The Way It Is』がリリースされますが、当初はホーンズビーがアコーディオンを演奏している写真が表紙に使われていたそうです。ニューエイジ音楽市場をターゲットにしていたそうで、この後に訪れる大ヒットは誰も予想していません。

Every Little Kiss(A-2)がバンドのデビューシングルとしてカットされますが、最高72位と地味な出だしでした。

そして1986年9月にアメリカでデビューアルバムThe Way It Isからの2枚目のシングルとしてタイトル曲The Way It Isがリリースされたのです。
この余りにも有名な曲は、意外にも第2弾シングルだったのです。

30歳の遅咲きデビューだった

予想外だったヒット

当初はシングルカットの予定すらなかったThe Way It Isは、まず最初に英国でラジオがヘビロテし15位に達します。
英国でのテレビのプロモーション出演の映像です。

そこから逆上陸し米国でも火が付いたのです。
全米で1位を獲得し、翌年の年間チャートでも8位となるヒットとなります。
その他カナダ、オランダでも1位と世界を席巻したのです。

「The Way It Is」は、素晴らしいアクシデントだった。完全なまぐれだ。即興のソロパートを2つも含んだ人種問題をテーマにした楽曲など、当時も今もポップのヒット曲の定番とは言えない。誰もがB面にすべきだと考えていた。しかし当時のBBCラジオ1でかかると、後はご覧の通りさ。最終的に北米でもヒットした。(ブルース・ホーンズビー)

rolling stone

曲はこのような歌詞で始まりますが、成程No.1ヒットになるような夢のある歌詞ではありません。

Standing in line marking time-Waiting for the welfare dime
微々たる生活保護をもらうために、列に並んで時間を潰している人々
'Cause they can't buy a job
彼らは仕事を得ることができないから

The Way It Isは不景気だった頃のアメリカの貧富の差がテーマになった、社会性の強いメッセージソングにも関わらず、大ヒットしたのです。
1964年に制定された人種差別を禁止する、著名な法律「公民権法」についても辛辣に述べています。

Well they passed a law in '64
彼らは1964年に法(公民権法)を通した
To give those who ain't got a little more
持たざる人々に権利を与えるための法だ
But it only goes so far
しかし、それは限界があった

そして有名なサビでは、
That's just The Way It Is
それは、そういうものなんだ
Some things will never change
何も変わりはしない

「何も変わりはしない」は今の日本の現状に当てはまるのでは、と嘆き節が出てさらに歌詞に共感するのです。 

また意外に感じた前述のスパイク・リーとの親交ですが、背景にはその人種問題への意識の高さがあったのです。

ヒップホップ界で愛される

この普遍的なメッセージが共感を呼んだこともあるのか、The Way It Isのピアノは2PacChangesを始め、スヌープ・ドッグなど多くのヒップホップ曲にサンプリングされたのです。

白人ながらスパイク・リーと密接に共同作業していたことも、黒人ミュージシャンとの親和性を高めたのもかもしれません。
最近では2020年、Polo GWishing for a Heroも素晴らしいコラボになりました。

アルバムは年間4位の大ヒット

次のシングルMandolin Rain(A-3)は4位と立て続けのヒットとなります。
ボブ・ディランの初来日に同行したデイヴィッド・マンスフィールドがマンドリンを奏でます。(本作リリース後に脱退)

さらに1987年にはEvery Little Kissが再度リリースされて14位。
数多のヒットを放ったアルバムは最高位3位、年間アルバムチャート4位と桁外れの成果を残したのです。
これはOn the Western Skyline(A-1)でアコーディオンを演奏するホーンズビートとWillie Nelsonの共演映像。

その後の活躍

2ndアルバム『Scenes From the Southside』(1988)はチャート5位。2枚目のジンクスもなく、好セールスを記録。Jacob's Ladderのセルフカバーも収録されます。
シングルThe Valley Roadが5位とヒットは続いたのです。

1989年、ホーンズビーはドン・ヘンリーに招かれThe End of the Innocenceの共作者となり、ピアノも演奏。最高8位となるヒットとなります。

1991年には、ボニー・レイットのヒット曲ICan't Make You Love Meでピアノを演奏。コラボ相手として引っ張り凧となるのです。

グレイトフル・デッドへの参加

しかし、単なるポップミュージシャンに留まることを拒絶したホーンズビーは、ジャズやブルーグラスを取り入れて、政治的関連性も強め、意図的にチャートからは遠去かって行くのです。
1990年5月、レインジとして3枚目の『A Night on the Town』をリリース。このアルバムでは、ジャズからはウェイン・ショーター(テナーサックス)とチャーリー・ヘイデン(アップライトベース)、そしてブルーグラスのベラ・フレック(バンジョー)も参加したのです。
シングルAcross the Riverには、ジェリー・ガルシアが参加します。

アルバムは18位とベスト10入りせず、1991年には新しいキャリア構築のためにレインジを解散したのです。

そして1990年から1992年3月まで、グレイトフル・デッドのツアーメンバーとして準メンバー的な存在となるのです。

グレイトフル・デッドに参加

ホーンズビーは「私は常に即興を好むミュージシャンだ。1曲を1時間続けてプレイすることなど朝飯前だったし、正に彼らともそういう感じだった。」とデッドについて語ります。
ホーンズビーは1994年にグレイトフル・デッドロックの殿堂入りを果たした際にはプレゼンターを務めます。

ジャズとブルーグラス

ホーンズビーは単なるアメリカンロックの枠組みから抜け出し、益々ジャズとブルーグラスの折衷的とも言える独自のサウンドを追求します。

「Will the Circle Be Unbroken: Volume Two」のために、Nitty Gritty Dirt BandThe Valley Roadを再構築。1990年この曲はグラミー賞でベストブルーグラスレコーディングを受賞しました。

1993年にバルセロナオリンピックのための「Barcelona Mona」で、ブランフォード・マルサリスと共に最優秀ベスト・ポップ・インストゥルメンタルを獲得、3度目のグラミーを獲得しました。
ブルーグラスとジャズの分野でもグラミーを獲得したのです。

93年初ソロ名義の「Harbor Lights」ではパット・メセニーとコラボレーション、95年のソロ「Hot House」ではブルーグラスのベラ・フレックと引き続き参加したメセニーを組み合わせたのです。

パット・メセニーと

2007年にはクリスチャン・マクブライド(ベース)とジャック・デジョネット(ドラム)と言うトップジャズミュージシャンとピアノトリオを結成しアルバムをリリース。
そして同年にはブルーグラスプレーヤーのリッキー・スキャッグスとチームを組み、アルバムをリリース。
ジャズとブルーグラスの二刀流という、今では言えばクリス・シーリのような縦横無尽な存在だったのです。
この映像では新旧の革新的ミュージシャンとも言えるホーンズビーとクリス・シーリの共演映像を紹介します。

ボン・イヴェールとの交流

そして前述したスパイク・リーの映画のために書き下ろし採用されなかった楽曲に歌詞を付けたアルパムを、2019年から“スパイク・リー三部作”としてリリースします。
2019年の第一弾『Absolute Zero』で彼は現役バリバリの新世代ミュージシャンとコラボレーションしたのです。

Absolute Zero

それがUSインディフォークの巨人ボン・イヴェールジャスティン・ヴァーノンです。既にグラミー賞を獲得し、何回もノミネートされる1981年生まれの世代の違うミュージシャンとどのように知り合ったのでしょうか。

ブルース・ホーンズビーとジャスティン・ヴァーノン

今の時代らしいのは、ホーンズビーはGoogleアラートアプリを使い、ヴァーノンが影響を与えた人物としてホーンズビーをあげているのを知ったのです。例えば、ヴァーノンは「Harbor Lights」でパット・メセニーのソロを採譜したりしてたと。
そしてヴァーノンからデュエットをしないかと連絡してきたそうです。
そして2016年のデッドへのトリビュートアルバム『Day of the Dead』Black Muddy Riverを共にカバーし交友が始まります。

さらに『Absolute Zero』収録のCast-Offでのコラボレーションに発展したのです。他にも本作にはyMusicブレイク・ミルズジャック・ディジョネットら多彩なゲストが参加しました。
逆にボン・イヴェールの作品『I, I 』にホーンズビーが参加しました。

最新アルバム「Flicted」(2022)ではヴァンパイア・ウィークエンドエズラ・クーニグハイムダニエル・ハイムなど、新世代のミュージシャンを引き続き起用。

2024年の今年はジャズ・ヒップホップ・バンド、ブッチャーブラウンとのコラボ作をリリース、69歳にして自らを更新し続けています。

「私のキャリアの道は典型的ではありません。私は常にゾクゾクするようなもの、インスピレーションを求め、ゾクゾクするようなものを書こうとしてきましたがそれは難しいことです。しかし、時にはそれができることもあります。そして、それが生きる意味のようなものなのです。」
(ブルース・ホーンズビー)





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