この一枚 #19 『Traveling Wilburys Vol.1』 トラヴェリング・ウィルベリーズ(1988)
ボブ・ディランとビートルズのジョージ・ハリスンが同じバンドにいる、という奇跡のような出来事が1988年に起きます。トラヴェリング・ウィルベリーズはこの2人以外に、ジェフ・リンとトム・ぺティという人気バンドのフロントマン、そして伝説のロイ・オービソンまでもが参加した驚きの5人組でした。
奇跡的な組み合わせの裏には知られざる友情物語があったのです。
覆面バンド、トラヴェリング・ウィルベリーズ
『Traveling Wilburys Vol. 1』(トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1)は、1988年に発表されました。
トラヴェリング・ウィルベリーズは覆面バンドで、メンバーは皆ウィルベリー姓を持つが、ジャケットを見れば彼らの素性は明らかでした。
ネルソン・ウィルベリー(ジョージ・ハリスン)
オーティス・ウィルベリー(ジェフ・リン)
レフティー・ウィルベリー(ロイ・オービソン)
チャーリー・T・ウィルベリー・ジュニア(トム・ぺティ)
ラッキー・ウィルベリー(ボブ・ディラン)
所属レコード会社が違う5人を集めるための苦肉の策でしたが、それを逆手に取ったジョージのユーモア感覚が冴え渡ります。
1988年10月リリースされたシングルHandle with Careのビデオ。
ジョージに続いて歌うグラサンのお爺さんの美声にまず驚きます。当時はロイ・オービソンについて知らず、でも物凄いオーラを感じたものです。そしてあの我儘なボブ・ディランがおとなしくコーラスに興じている姿も現実離れしていました。さらにはトム・ぺティやジェフ・リンまで。
どのような経緯で結成されたのかも情報がなく、謎に包まれて不思議な気分で映像を眺めたものです。
ウィルベリーズ結成前夜
ジョージ・ハリスンの大復活
さて、1986年まで進んだ80年代ですが、とある事情で前回は1982年の「The Nightfly」に逆戻りしましたが、今回は順当に進んで1988年。
余すところ、80年代シリーズもあと2回となります。
前々回、ピーター・ガブリエル編で1986年にアメリカへバッグパック旅行に行った話をしましたが、帰国すると1987年にとあるデパートに就職し初めてサラリーマンとなり、宣伝関連の部署に配属されました。
鎌倉から新宿まで通う生活は厳しく残業も続きましたが、心の支えは録画した『ザ・ポッパーズMTV』を繰り返し観ることでしたが、本番組も同年に終わりを告げます
先日オンエアーされた「伝説の音楽番組『ザ・ポッパーズMTV』とは、なんだったのか? 」(TBSラジオ「アフター6ジャンクション」)の何と懐かしかったこと。
その中でピーター・バラカンさんが思い出のビデオとしてセレクトしたのが、ジョージ・ハリスンのWhen We Was Fabでした。ビートルズのパロディでユーモラスなこのビデオの監督は、名匠Godley&Cremeだそうです。
余談でしたが、これを収録したアルバム『Cloud Nine』 がリリースされたのが1987年11月のことでした。
このアルバムで先行リリースされたGot My Mind Set On Youは全米チャート1位となり、アルバムも8位と、当時は隠遁していたジョージの突然の復活に驚いたものでした。
1987年の年間ランキングのトップ1シングルがホイットニー・ヒューストンのすてきなSomebody でしたが、その中で堂々と年間13位となってジョージ完全復活となったのですが、突然の再ブレイクは驚きでした。
なぜなら、1982年に発表した『Gone Troppo』はアルバムチャートで108位と大コケするのです。すると、ハリスンは本業を放棄し隠遁した状態となり、映画制作やカーレースなど趣味に没頭するようになっていくのです。
70年のMy Sweet Lord、73年のGive Me Loveがチャート1位とヒットを連発して、解散後はジョンやポールを凌駕する活躍を見せていたジョージも、81年の過ぎ去りし日々が2位となったのを最後にチャートから縁遠くなっており、世間からは忘れ去られた存在でした。
ジェフ・リンとの出会い
この彼の突然の復活に一役買ったのが、プロデュースを担当したジェフ・リンです。
ELOを終結させプロデュース業に転向し始めたリンとジョージの運命的な出会いが、この復活劇の引き金でした。
ジェフ・リンはデイヴ・エドモンズから、ジョージ・ハリスンが一緒に何か作品をプロデュースして欲しいと、伝え聞きます。
エドモンズとジョージは1985年カール・パーキンスのライブで共演しているので、この辺りで伝言が伝えられたのかもしれません。
エドモンズの仲介により、ジェフ・リンとジョージは知り合い、そして2人はオーストラリアにカーレース観戦に出かけて曲作りに励んだそうです。
この出会いが『Cloud Nine』によるジョージの復活劇に繋がるのですが、さらには1995年のビートルズの新曲Free as a Birdをジェフ・リンがプロデュースする事になるのですから、人の出会いはマジックです。
そして完全に息を吹き返したジョージはジェフ・リンを参謀に、活発に動き始めるのです。
ロイ・オービソン
トラヴェリング・ウィルベリーズの中で最年長となるロイ・オービソンは1936年生まれ、当時は既に50歳を超えていました。
(1941年のディラン、1943年のジョージよりも一世代上)
1964年に発表されたOh, Pretty Womanは全米・全英チャートで共に1位となり、それ以外にも多くのヒット曲を持つ伝説的歌手。
しかし60年代後半から70年代は不調となり、世の中からは忘れ去られます。
1982年にヴァン・ヘイレンによってOh, Pretty Womanカバーされて全米トップ20内リバイバルとなり、1990年には映画『プリティ・ウーマン』の主題歌としても大きな注目を集め、再度彼に注目が集まります。
1963年には、当時ブレイクしたばかりのビートルズをツアーの前座に起用、ジョージとの縁もその辺りかと思われます。
1987年9月には ブルース・スプリングスティーン、トム・ウェイツなどといった豪華な顔ぶれが参加したステージは、後に「Black & White Night」として作品化されます。ここではジャクソン・ブラウン、エルヴィス・コステロやJ.D.サウザーがゲスト参加したOnly the Lonelyを紹介します。
そして1988年4月、LAでジョージは、ロイ・オービソンとジェフ・リンと一緒に食事をします。当時、オービソンはリンに復活のための新作を相談していました。食事の際、ジョージは『Cloud Nine』からカットするEP This is loveのB面の曲をヘルプして欲しいと2人に依頼します。
そのミーティングこそがトラヴェリング・ウィルベリーズというアイデアの出発点となるのです。
そしてジョージは、録音にはマリブにあるボブ・ディランのホームスタジオを借りようと考え、ウィルベリーズの奇跡の5人組が揃う流れになるのです。
迷えるディラン
さて当時80年代のディランは低迷期にいました。
1986年の「Knocked Out Loaded」は、米国チャートで53位に終わります。
またその前年の1985年には「We are the world」に参加したものの、当時の迷えるディランの姿が確認できます。
1986年と1987年、ここを打破すべくディランはトム・ペティ&ハートブレイカーズとツアーを行います。
ディランは自伝で「トムは彼のキャリアのピークにいて、私は自分のキャリアのどん底にいたのだ」とも語っていました。
1987年10月、ジョージはロンドン公演でイギリスに来たディランとペティの楽屋を、ジェフ・リンと共に訪ねます。ここでジョージとペティは、意気投合し、またリンもディランと知り合うのです。
ジョージとディランの公式の共演は1971年の『バングラデシュ・コンサート』が有名ですが、それ以前から2人の交流は続いていました。
1968年にジョージはアメリカに渡り、ディラン&ザ・バンドとウッドストックでジャムセッションを行います。
1970年5月におこなわれたジョージとのスタジオ・セッション9曲が2021年にはリリースされています。Yesterdayなどを2人でセッションしています。
トム・ペティ
さて話をトラヴェリング・ウィルベリーズ結成前夜に戻します。
ジョージは当時懇意にしていたトム・ペティの家にギターを置いていたので、それをとりに行くとペティも在宅。ペティも参加を快諾し、偶然の連続が奇跡の5人を結びつけます。
トム・ペティ(Tom Petty)は1950生まれで当時は38歳で最年少。リンが1947年生まれの41歳なので2人が新世代の代表。
1976年にTom Petty & the Heartbreakersとしてデビューしますが、その前身のバンド、マッドクラッチではベースを弾いていました。その関係かウィルベリーズではベース担当になります。
マッドクラッチにはイーグルスのバーニー・レドンの実弟トム・レドンも所属していました。
Heartbreakersは1979年発表のサード・アルバム『Damn the Torpedoes』が全米2位の大ヒットを記録。
その後3作続けてアルバムチャートベスト10に送り込むなど、順調にヒットを飛ばし、まさに80年代をリードするミュージシャンでした。
ディランとのツアー中の86年にはペティはBand Of The Handをプロデュース。Heartbreakersのメンバーが演奏に参加し、スティーヴィー・ニックスがコーラスで参加しました。
また当時トム・ペティはソロアルバムのプロデュースを、リンに依頼しており、それが発売されるのはまだ1989年と先のことですが、そのソロ作は大成功を収めるのです。
ジェフ・リンは数珠繋ぎのようにジョージ、オービソン、ペティ、そして90年代にはビートルズのプロデュースまで手掛け、名プロデューサーの名を確立したのです。
奇跡のウィルベリーズ結成
Handle with care(A-1)
翌4月7日、マリブのディラン邸を4人は訪れ、参加予定になかった家主のディランも加わり、5人で曲を作りに着手します。
こうしてHandle with careのデモ・テイクが出来上がったのです。
ハリソンはディランのガレージで「Handle with care(取り扱い注意)」と書かれた箱を見てタイトルを名付けたのです。
ジョージから曲を聞かされたレコード会社は、その出来栄えにシングルB面にするのは勿体無いと伝えます。
そこでジョージが思いついたのが、この5人であと9曲録音して、アルバムを作ってしまおうと言うアイデアでした。
ジョージから聞いたリンとペティは即決し、難しいと思われたディランも意外に意外に即断し、残るオービソンは皆でライブ会場に押しかけて、彼も了解し5人が揃うアルバムの構想がスタートします。
デモに、ジョージがスライド、ディランがハーモニカのソロを加えて、ドラムはジム・ケルトナーに依頼したが都合が付かずに、リンがドラムを叩き、イアン・ウォレスがフィルインを追加しHandle with careは完成しました。
アルバムは大ヒット
5月になると5人は、LAにあるペティの友人でもあるデイヴ・スチュワートの自宅スタジオで基本トラックとボーカルを録音。ディランのツアースケジュールのため9日間でアルバムを完成させます。
ここには、Handle with careでは都合が付かなかった、ジム・ケルトナーが準メンバーBuster Sideburyとして参加。(正式メンバーとして参加も打診されたが固辞)
その後、オーバーダブとミキシングはイギリスのハリソンの自宅スタジオでリンと共に行われアルバムは完成。
1988年10月にリリースされると米国チャート3位に駆け上り、トリプル・プラチナに認定されました。翌年のグラミー賞では、最優秀ロック・デュオ/グループを受賞したのです。
ジョージの役割
当然、アルバムは言い出しっぺでプロデューサーのジョージとリンの色が強いが、リードボーカルは5人に割り振られておりグループらしさを感じます。リードボーカルと言っても、Aメロ、サビと次々とボーカルが移り変わるのが恒例で、どこで誰が歌っているのかを確認するだけでも楽しい。
A面のリードボーカルは1.ジョージ→2.ディラン→3.リン→4.ペティ→5.オービソンと公平に分配されてますが、各曲とも進むつれてリレーのようなボーカルの受け渡しが楽しみです。
クレジットは全曲Traveling Wilburysだが、個別の作曲者も後日明らかになっています。
ジョージはHandle with careとB-2のHeading For The Lightと大ラスのEnd of the Lineの3曲の作品を提供。
Heading For The Lightは「Cloud Nine」の延長にある作品。ジョージとリンがボーカルを分け合います。ジム・ホーンのサックスとオービソンのクリアなコーラスが生かされています。
ディランの活躍
ディランが気軽に参加したのは意外だったが、低迷していたこの時期だから、何かのきっかけが欲しかったのか。
ディランが1988年5月にリリースした「Down in the Groove」がチャート61位とまたも低迷するので、渡りに船の時期だったのです。
当初はスタジオを貸して食事を振る舞うホスト役のはずが、そのまま参加してメンバーの1人になるとは驚きの行動でした。
以前ディランのバンドにいたジム・ケルトナーは「ボブと個人的に時間を過ごす機会はそうない。ウィルベリーズだったので、彼と楽しく過ごしました。彼はすごく面白い人で、みんな彼のそういう面を知りません。」と語りました。
録音風景を収めたビデオには楽しそうなディランの姿が見られます。
Dirty World、Congratulations、Tweeter And The Monkey Manと3曲の作品を提供しますが、自作だけでなくディランの声が所々に挟み込まれウィルベリーズの個性を形成したのです。
A-2のDirty Worldはディランの「プリンスみたいなことをやろうぜ!」の一声でセクシー路線の歌詞となります。
いきなりディランの声で「He loves your sexy body」と始まり、ニヤリとしてしまいます。
ディランのボーカルで始まりますが、途中曲調は一転して他のメンバーも交代でボーカルを取り始め、コーラスで終わるという不思議な曲ですが、これぞウィルベリーズという斬新な曲です。
B-3のTweeter And The Monkey Manはブルース・スプリングスティーンの曲名が出てくる遊び心のある曲です。
以下の映像には録音風景が楽しく収録されています。
オービソンを中心に結束
ペティはLast Night、Margaritaの2曲、リンの作品はRattled、Not Alone Any Moreの2曲です。Last Night(A-4)はペティのボーカルで始まるが、サビはオービソンが受け持つというお得意のパターン。
Rattled(A-3)はリンがメインボーカルで往年のロカビリーを再現するように展開、オービソンの得意技うがい(?)も聴けます。
Not Alone Any More(A-5)のリードボーカルはオービソン。リンがオービソンなら書きそうな曲を想定して作り上げました。
オービソンへの皆のリスペクトがバンドの結束を高めたのです。
ウィルベリーズの魅力にオービソンのオペラ的な美声とディランのダミ声との対比がありますが、自分にはディランとオービソンの接点が思い浮かびませんでしたが、以下を読むと2人の関係が明らかになります。
少年時代のディランがラジオから流れるロイ・オービソンの音楽を聴いて、フォークだけでなくロックンロールに目覚めた様子が語られています。
リンはオービソンの復活シングルとなるはずだったYou Got Itもプロデュースし、ペティと共作し1988年4月に録音も行っています。
録音にはリン、ペティ、そしてジョージも参加しウィルベリーズの4人が参加したのです。
死の直前のライブでリリース前のこの曲を披露。
オービソンのアルバムとウィルベリーズの結成がほぼ同時進行で進んでいたことがわかりますが、この後に悲劇が起こるのです。
オービソン逝く
ロイ・オービソンが1988年12月6日に心臓発作で突然亡くなったのです。『Traveling Wilburys Vol. 1』のリリース後の僅か1ヶ月半後のことです。
オービソンの死後、2枚目のシングルEnd of the Lineのビデオが撮影されました。追悼の意で、ビデオには、オービソンの白黒写真が額装されて、彼のボーカルが聞こえるたびに、椅子に揺られている彼のギターが映し出されました。
そして前述のYou Got Itは、オービソンの死の翌月の1989年1月3日にリリースされて、シングルチャート9位のヒットとなるのです。これはオービソンの25年振りのトップ10入りとなるのです。
ウィルベリーズのその後
Traveling Wilburys Vol. 3.
1989年にはウィルベリーズと同時進行だったペティの初ソロ「Full Moon Fever」がリリースされチャート3位のヒット。ジェフ・リンが共同プロデュースし、ジョージと生前のロービソンもゲスト参加しました。
I Won't Back Downのビデオにはリン、ジョージにリンゴも参加。
一期一会のプロジェクトと思われたウィルベリーズですが、1990年3月オービソンを除く4人が再結集して2枚目が録音されました。
そして10月にセカンドなのになぜか「Traveling Wilburys Vol. 3.」としてリリースされます。
1991年にはジョージが待望の初来日。
トム・ペティとの共作曲で新曲Cheer Downを披露しました。
(録音にはジェフ・リンも参加)
自分もドームに駆け付けて初めて観るジョージの雄姿に涙したのです。
そしてディランの30周年記念ライブ「30th Anniversary Concert」では、ディラン、ジョージ、ペティにドラムはジム・ケルトナーと、ウィルベリーズの同窓会のような趣でMy Back Pagesが演奏されたのです。
ジョージとペティの逝去
しかしウィルベリーズの提唱者であるジョージ・ハリスンが2001年に逝去。
2002年にはジョージの追悼ライブ「Concert For George」において息子ダーニと共に、ペティとリンがHandle With Careを披露しました。
そして2017年にはトム・ぺティの訃報を聞くことになります。
ペティの逝去際してディランこのような追悼コメントを発表しています。
「あまりにショックで心が押しつぶされるようだ・・・トムの世界が大好きだった。彼は偉大なパフォーマーであり、光に満ちていた存在、そして僕の友人だった。彼のことは一生忘れない」
そしてペティはウィルベリーズについて、「僕の人生の中でも、一番幸せな時期だった。他のメンバーもそうだろう。いつでも音楽に溢れ、いつも笑っていた。」と語っていました。
ウィルベリーズはデジタルな80年代的サウンドに飽き飽きしていた時代に、楔を打ち込みました。
90年代のアンプラグドを予言するようにアコースティック・ギターを中心に、達人たちのコーラスワーク、ジョージのスライド、ディランのハーモニカなど、職人的な聞かせどころ満載。
ジョージやリンのイギリス勢のビートルズ感覚に、オービソンのロカビリー、ディランのフォーク、ペティの南部テイストが良い意味でごった煮となり、アメリカンルーツミュージックの集大成となりました。