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名盤と人 30回 来日公演 ! 『Takin it to the street』 ドゥービー・ブラザーズ

4月に来日したドゥービー・ブラザーズ。トム・ジョンストンとマイケル・マクドナルドという両巨頭が揃い踏みでの初来日となった。そこで当時無名の存在ながら、トム・ジョンストンの後釜に抜擢されたマイケル・マクドナルドの実質的デビュー作となった『Takin it to the street』を深掘した。さらに絶賛の来日公演もライブ映像と共にレポートする。

『Takin it to the street』は1976年3月のリリース。このアルバムの録音中にトム・ジョンストンは体調不良で離脱し、その代役としてマイケル・マクドナルドに白羽の矢が立つ。トムは次作の録音には参加していないので、2人が同時に参加した唯一のアルバムであり、トム・ジョンストン期マイケル・マクドナルド期のターニングポイントとして、この来日を機に再度聴き直してみた。
合わせて2人同時では初来日となった4月18日横浜公演を、動画入りでレポートする。

『Takin it to the street』

50年の歴史を振り返る来日公演

50年の歴史を振り返るというコンセプトらしく、オープニングはデビュー作からNobody
前日の武道館は上まで満杯という客入りで大盛り上がりと言う情報はネットを駆け巡り、横浜のお客もノリが良い。
15曲を過ぎると会場は総立ちとなり、スローな曲でも座る観衆は少ない。
トム、パット、マイケルと言う歴代の3人のボーカリストが、交互に歌うヒット曲からマニアックな選曲まで退屈する時間はない。
最後はLong Train RunningChina Groveとお約束だが、盛り上げる。

アンコールは、パットのBlack Water、マイケルのTakin it to the street、ラストはトムとパットが交互に歌うListen to the musicと、歴史を振り返る全25曲で2時間超えとなり、ライブは大盛り上がりで終わりを迎えた。

再注目を集めるマイケル・マクドナルド

2017年にリリースされたThundercat(サンダーキャット)「Drunk」。Show You The WayMichael McDonald (マイケル・マクドナルド)が Kenny Logginsと共作、さらにゲストボーカルとしても起用され、新しいヤングジェネレーションにもマイケル・マクドナルドが認知され、オールドファンからも再注目された。

2019年にはコーチェラのLiveでもコラボレーションしている。

2020年のThundercatの「It Is What It Is」にも再度、マイケル・マクドナルドは参加し、交流を深めている。新たに次世代、特にジャズ系のミュージシャンとの交流も増え、活動自体も活発化している。

このドゥービーの結成50thツアーにマイケル・マクドナルドが参加したのも、この一環の流れであろう。
彼の実質的なデビューであり、トムとマイケルと言うフロントマンの歴史的な交代劇があった、1976年3月リリースの「Takin' It to the Streets」(ドゥービー・ストリート)を掘り下げてみたい。

マイケル・マクドナルド加入の経緯

代役だったマイケル・マクドナルド

1976年1月に初来日したDoobie Brothers(ドゥービー・ブラザーズ)だったが、主要メンバーとしてボーカルとギターを担っていたTom Johnston(トム・ジョンストン)は病気のため来日せずに、マイケルマクドナルドという当時は全く無名の代役が登場し衝撃が走る。

当時のドゥービーは1975年5月に『Stampede』をリリースし大ヒットを記録、Eaglesと並ぶ全米を代表するバンドに成長した頃。その中で多くのソングライティングとボーカルを担っていたトム・ジョンストンは体調不良が続き1975年4月ツアー中に倒れて戦線を離脱。ツアーの代役としてJeff Baxterの推薦で無名のマイケルマクドナルドが抜擢されたのである。

大物バンドで離脱があればそれなりの知名度のあるメンバーが補充されるのが普通で、ストーンズではミック・テイラーの代わりにロン・ウッドが、イーグルスではバリー・レドンの代わりにジョー・ウォルシュと、そこそこ知名度がある大物が加入するのが普通だった。
当時のドゥービー・ブラザーズはそれだけ切羽詰まっていたのだ。

ネットもない情報のない時代、トム・ジョンストンが不在でいきなり出てきた無名の髭面に「マイケル・マクドナルドって何者?」とざわついてたものだが、正体不明であった。

そんな不安を感じる中、1976年3月にリリースされた新作『Takin it to the street』を聴くとさらにその変化に衝撃が走る。
当時の音楽誌によるとマイケル・マクドナルドJeff  Baxterと同様元Steely Danのメンバーということだか、当時の情報ではメンバーだった足跡はなく混迷は深まる。

南部的なルーツフィーリングを持つロックンロールバンドがDoobieの最大の個性で、当時の学生バンドはわかりやすいChinaGlobeLong train runningのギターサウンドを好んでコピーしていた。
当時の自分もそんなノリやすいドゥービー・サウンドか好きだったが、鳴り始めたサウンドは馴染みのないR&B、ジャズテイストに変貌、特にマイケルの曲はAOR的でロックとは言い難い曲が多く、大いに困惑したものだ。
さらにはトムの曲はTurn It Looseのみの一曲で、トムこそDoobieと信じていた自分はその行末に不安を感じたものだった。
そしてこの曲のみが従来のドゥービーサウンドを踏襲するもので、これ以外は別世界であった。

トムは一時的に復帰し、『Takin it to the street』のツアーに参加するが、ほどなくして離脱する。そのツアーからTurn It Loose。マイケルとトムが同居するレアな映像。

マイケル・マクドナルドの軌跡

Michael McDonaldは1952年セントルイス生まれの70歳。
1970年LAに移住。セッションミュージシャンとして活動を始める。
71 年にはシングルGod knowsでデビューし、数枚のシングルを出すが売れることなく、歌手への道を断念する。

その後、16歳の頃から知人だったドラマーJeff Porcaro(後にTotoに加入)の誘いでSteely Danのツアーメンバーのオーディションを受ける。
Porcaroは20歳で1974年リリースのSteely Danの「Pretzel Logic」に初参加。その後はツアーメンバーに抜擢されていた。マイケルは「高音部が歌える」という理由で審査を通過し、「Pretzel Logic」後のツアーでキーボードとボーカルを担当。
このツアーには当時はまだメンバーだったJeff Baxterも参加していた。
39:00辺りで聴けるPretzel Logicでのマイケルのボーカル。無名のマイケルだが歌い始めるとその歌声の迫力に驚きが走る。
当時のSteely DanのメンバーはDonald Fagen (Vocal,Keyboards )、Walter Becker (Bass) に、 Michael McDonald (Keyboards, Vocal)、Jeff Baxter (Guitar)、 Jeff Porcaro(Drums)等という今考えると凄いメンバーが集まっていたことになる。
マイケルとジェフ・ポーカロはここで若き日の友情を育む。

この後Jeff Baxterはダンを脱退しDoobieに参加するのだが、これがマイケルのその後の運命にも関わってくる。

1975年3月リリースの「Katy Lied」 にはマイケルはバックグラウンドボーカルとしてJeff Porcaroと共にレコーディングにも参加。2人はジャケット写真にはメンバーとして写真が掲載されるなど準メンバー的な扱いだった。
この事実で、当時はマイケルは元スティーリー・ダンのメンバーとして報道されるが、実際にはツアーメンバーであった。
Bad Sneakersではマイケルと一聴してわかる印象的なコーラスを聴かせる。
(ドゥービー参加後もマイケルはスティーリー・ダンにとって重要なコーラスパートを担い、77年のPegでも印象的なボイスを聴かせている)

ほどなくしてスティーリー・ダンもツアーを休止し、マイケルも失職する。
当時のマイケルはアパートを追い出され、ガレージ暮らしをしていた。
そんな彼に75年4月急遽、トム・ジョンストンの代役としてDoobieのツアーに参加するようジェフ・バクスターから連絡が来たのである。

つい最近、Rolling Stone誌のインタビューにデビューから今に至る詳細を珍しくマイケルが答えている。

変貌したドゥービー・サウンド

「Stampede」から「Takin it to the street」へ

Tom Johnston期の最高傑作と言われる前作の「Stampede」は1975年5月にリリース。
Steely Danを辞めたジェフ・バクスターが正式加入し、ジャズを基調にした彼のギターがDoobieを単なるロックンロールバンドから進化させている。
さらにはLittle Featからの影響も濃厚だ。
プロデューサーが同じTed Templeman(テッド・テンプルマン)で、Little FeatのキーボードBillPayneは「ToulouseStreet」より4作続けての参加で準メンバーと言っていい存在。
このBill Payneのキーボードの活躍も目立ち、さらには黒人ベーシストのTyran Porter(タイラン・ポーター)が曲を引っ張るところもFeatとの類似性を感じる
さらにはCurtis Mayfieldにストリングスアレンジを依頼した曲Music Manもあったりと、かなりの意欲作であった。

また、それまではツインドラムという謳い文句ながら、実際には2人で叩く曲は一枚に1-2曲だったらしいが、本作よりは全面的にツインドラムも採用され、広がりを感じるドラムのリズムも印象的だ。

そんな最高作を出しながら、大黒柱のトムが不在となる不安な船出において、次作「Takin it to the street」がリリースされた。

トムの写真もあるが1人だけトーンが違い寂しげ
集合写真にはトムはいない

Wheels of Fortune

まずオープニングのWheels of Fortune Patrick SimmonsJeff BaxterJohn Hartmanの作品だが、Doobieらしいギターカッティングとパットに続きトムもボーカルを取り安心する。

だがそれも束の間。中盤からはファンキーなベース、フュージョン的なエレピとギターのインプロビゼーションが始まり驚く。マイケルジェフ・バクスターの新加入コンビが大活躍。 MemphisHornsのホーン隊も重厚で一転してFusion的な展開となる。
ツインドラムの1人はLittle FeatRichie Haywardがゲスト参加、作曲者の1人John Hartmanと叩き、Knudsenはバックボーカルに回った。
名プロデューサーテッド・テンプルマンが「最も信頼寄せるドラマー」と評価するHaywardを呼び寄せることでFusion的なリズム感覚を学ばせようとしたのだろうか。
そのためニューオリンズ路線からフュージョンに路線変更し始めた当時のFeatの影響も感じる。
Doobieのロックンロールに、南部的な FeatのファンキーさとSteely Danの都会的なジャズが絶妙に絡み合い、前作Stampedeから本作へリスナーを上手く誘う。

ベールを脱いだMichael McDonald

2曲目のTakin' It to the Streetsではさらに衝撃が走る。
何曲か知られることもないシングルはあるにせよ、世間にMichael McDonaldが認知された実質的なデビュー作がTakin' It to the Streetsであるとは異論はない。

ツアー限りの参加だと思い込んでいたマイケルは、レコーディングへの参加依頼が来て驚いたらしい。

Takin'It To The Streetsのアイデアはドライブしていたときに思いついたと言う。「頭の中でイントロが流れ、ゴスペルのような感じの曲調であると気づいた」「基本的にこの曲はその数分で生まれた。曲の残りの部分はとてもシンプルでした」という。
Takin' It To The Streetsの歌詞は、当時大学生だった妹と話していて生まれたらしい。この妹のマーティン・ルーサー・キングと米国の社会不安に関する大学の論文がインスピレーションとなり歌詞が書かれた。
「妹は社会経済学のクラスにいて、典型的な大学生だった。私たちは、都会で人々がどん底に落ち、割れ目に落ちていく様子について話し合い、その夜、アパートに帰って曲を完成させようと座った時に、歌詞のアイデアとメロディーが自然に融合した」とマイケルは語る。
この妹のモーリーン・マクドナルドはその後、次作でマイケルのバッキング・ボーカルを担当し、デビューもしている。
以下の音源はTakin'It To The Streetsのデモ

彼が加入してから最初のアルバム『Takin’ It To The Street』(1976年)の表題曲なんて驚異的な曲だよ。当時の僕やバンドにはほかに候補になるような人をじっくり探す時間もなくて、知り合いだったマイケルに声をかけたんだけど大正解だった。そんな風にバンドの変化はとてもスムーズに行なわれていったよ。

ジェフ・バクスター/guitar magazine

マイケルを引き入れたジェフ・バクスターも絶賛し、この2人が主導して本作は制作されて行く。

この曲を皮切りに実績のない身分ながら、マイケルは4曲(共作1つを含む)を提供し、リードボーカルも担当している。

マイケルの後押しをしたタイラン・ポーター

トムに固執するテッド・テンプルマンは当初マイケルをメンバーとして、加えることを躊躇っていた。
ツアー後にガレージ暮らしをしていたマイケルを訪ねたテンプルマンに、Losin' End(A-4)のデモを聴かせたという。
デモはタイラン・ポーターの自宅の地下にあるスタジオで2人で制作されたと言う。マイケルの歌声に感銘を受けたタイランは、2人でデモ作りをしてたらしい。黒人ベーシストであるタイランは、ソウル感覚溢れるマイケルの加入を熱望したのであろう。
マイケルは「最もドゥービーらしくない曲」と語っている。この曲を聴いたテッドは「ジョーコッカーとマーヴィンゲイの声を合わせたような」マイケルの声に魅了されたという。

やはりデモに毛が生えた程度の出来に不満足だったのか、ソロ作のIf That's What It Takesでセルフカバーしている。DrumsにSteve Gadd、BassにWillie Weeksと言うリズムセクションに、ギターがDean Parks、OrganがGreg Phillinganesと言う豪華のメンバーで理想を音にした。

そしてタイラン・ポーターも自作For Someone Specialでボーカルを初披露。バリー・ホワイトのように低音の渋いボーカルで、これまたドゥービーとはかけ離れたジャズテイストの曲調である。ジャズ好きのジェフバクスターのギターが大活躍する。
2作目からの参加でドゥービーサウンドを変えたベーシストはさらに本作でも強烈なベースを聴かせ、サウンドの変貌に貢献した。
トムとマイケルが揃い踏みで話題の来日公演だが、タイランの不在が何とも惜しい。

カーリー・サイモンとの交流

もう一つのマイケルのシングルがIt Keeps You Runnin。3枚目のシングルとして10月にリリースされた。

これはテッド・テンプルマンがプロデュースし、同年の76年6月にリリースされたカーリー・サイモンの『見知らぬ二人』(Another Passenger)でカバーされた。
ドゥービーのプロデューサーでもあるテンプルマンは、この曲にトムを除く、ドゥービーのメンバーを全員参加させた。
すなわちマイケル・マクドナルド(key)、ジェフ・バクスター(スライド)、パット・シモンズ(G)、タイラン・ポーター(B)、ジョン・ハートマン(Dr)、キース・ヌードセン(Dr)が参加。当時のドゥービーそのものががバックを務めるというレアなケースとなった。

これはリリース翌年のIt Keeps You Runnin77年のライブ映像だが、ここで演奏しているメンバーがそのままサイモンのバックを務めたことになる。

ドゥービーはもう一曲、サイモンのバックを務めている。このバックボーカルはLinda Ronstadtと言う豪華な組み合わせ。

カーリー・サイモンとの蜜月関係はその後も続き、次作「Livin' on the Fault Line」で録音されたYou belong to meをマイケルが共作。双方のアルバムに収録した。
このカーリーのカバーには、Cornell Dupree&Eric Gale(G)、Richard Tee(key)、Steve Gadd(Dr)、Gordon Edwards(B)と言うStuffがほぼ全員顔をそろえ、さらにDave Sanborn(Alto Sax)、Michael Brecker(Tenor Sax)、Randy Brecker(Trumpet)に夫のJames Taylorと言う豪華なメンバーとなり、大ヒットした。

こちらはドゥービーのYou Belong To Me (1982年)

成功と崩壊

パット・シモンズとジェフ・バクスター

本作にはあたかも2つの異なるバンドが混在しているように聴こえる。
1つはマイケルのソウルフル、ゴスペルライクなボーカルをフューチャーしたTakin' It to the StreetsLosin' EndIt Keeps You RunninCarry Me Awayの4曲。
ギターバンドのドゥービーが、キーボード主体になってしまい、ロックではなくAORと言う全く違うサウンドになっている。
Carry Me Awayのみはマイケル、パット・シモンズジェフ・バクスターの共作。バクスターのジャズ的なソロとマイケルのピアノが上手くブレンドされ、メンフィスホーンのブラスと相まって、見事な懐古的ジャズナンバーとなっている。

もう1つは従来のギターサウンドをベースにしつ、さらにジャズ/フュージョン的に進化させたパット・シモンズジェフ・バクスターが主導したサウンドだ。Wheels of Fortune8th Avenue ShuffleRioの3曲。タイランのFor Someone Specialも入れて、これらの曲はジェフ・バクスターのジャズ的な要素が濃厚なギターがバンドを導いている。
本作直後のツアー映像だが、どの時期とも違う濃厚なジャズ、フュージョン的な演奏が展開される。またメンフィス・ホーンも参加しており、この時期でしか出せないサウンドを展開している。

『Takin’ It To The Street』はとにかく楽しいアルバムで、演奏していて楽しく感じる曲がたくさんあった。実はゴスペルのフィーリングがいっぱい詰まったアルバムだったしね。そもそもゴスペル音楽というのは楽しめるものだから、それに通じるものをプレイするのは素晴らしい経験だったよ。あのアルバムの中では、「Rio」は個性的な曲でとても気に入ってる。

ジェフ・バクスター/guitarmagazine

その中でも白眉はRioである。
バクスター、テンプルマンが揃って最高の曲だと絶賛しているが、シングルにはなっていないが彼らの隠れた名曲だ。

もう1 曲 私の心の中で抜きんでた存在となっているのはパットのRioだ。あの曲の綿密に組み立てられたアレンジは最終的に私が書くことになったものだ。ここでは2人のドラマーとボビーのコンガ。それにストリングスと管楽器を使いベースとギターとマイケルのキーボードも加わっている。その上 パットとマイケルに一緒に歌わせているのだ。注意深く耳を傾けるとマリアマルダーのセクシーで甘い声も聞こえる。 私のキャリアの中でも最も困難なアレンジだった。結果はとても気に入っているのだが あれを録音するのは本当に困難だったよ。

テッド・テンプルマンの音楽人生

以下の音源はTakin' It to the Streets tour 1976-77からだが、Rioのライブ音源も聴くことができる。その後はRioはライブでは演奏されないが、Memphis Hornsなしでは実際再現は困難だったのだろう。Reelin' In the Years (Steely Dan)なども演奏しているが、かなりレアで、また当時のドゥービーの先進性が伺える。
そして、結局結成から今まで唯一参加し続けたパット・シモンズが、グループの危機に見事な構成の楽曲を提供したことは特筆に値する。

大成功と挫折

テッド・テンプルマンの不安をよそに、本作はトップ10に入りシングルは13位まで浮上し、アルバムはプラチナディスクとなる。
大黒柱トムの離脱という大ピンチを、マイケルという無名の青年を抜擢して回避。逆に前作を上回る成功を手にし、本格的にグループの方向性をマイケルをフロントに転換する。

その変換をさらに押し進めたのが、次作の「Livin' on the Fault Line」である。トム・ジョンストンは名前こそ残るが録音には参加せず、さらにマイケルとジェフ・バクスターとが主導する内容となる。

この経緯については拙文「フロントマンの交代」が詳しい。

その後1978年にリリースされた『ミニット・バイ・ミニット』( Minute by Minute )は全米1位となり、収録されたWhat a Fool Believesグラミー最優秀楽曲を獲得し、バンドは頂点を極める。
しかし、録音中にジェフ・バクスターとマイケル本人の音楽的な対立が深まる。AOR調の整然としたサウンド作りを目指すマイケルとジャズ的なインプロビゼーションを突飛に入れたがるバクスターの間に溝が深まったのだ。
そしてなんとマイケルをグループに引き入れた張本人ジェフ・バクスターは、アルバム発売後に脱退する。

1980 Grammy's Liveでの演奏だが、既にジェフ・バクスターはいない。代わりに来日メンバーのジョン・マクフィーの姿が。

そしてメンバーを補充し一枚のアルバム(One Step Closer)をリリースするが、1982年グループは解散する。

1989年、トム・ジョンストン期のメンバーで再結成し「Cycles」をリリースし現在に至る。

ジェフ・ポーカロとの再会

ドゥービー解散と同時期の1982年、Michael McDonaldによるデビュースタジオアルバム「If That's What It Takes」がリリース。
Billboard 200 で 6 位に達し、シングル「I Keep Forgettin' (Every Time You're Near)」は 4 位のヒットとなり、幸先の良い船出となる。

そこには、マイケルをスティーリー・ダンに誘ってくれた恩人のジェフ・ポーカロも参加していた。ポーカロも78年にTOTOでデビューし、この83年にはグラミーを獲得する。
同時期に無名時代を過ごした2人も10年足らずで、ビッグなミュージシャンとなり再会した。
マイケルはポーカロについて、以下のように語る。

「シャッフルも、典型的なロックンロールのドラム・パターンも、彼の手にかかればガラリと違うものになる。もっとソフィスティケートされた、グルーヴィーなものに変わるんだ。同じプレイができるドラマーが100人いたとしても、あそこまでやれる人間はいないよ」

ジェフ・ポーカロ イッツ・アバウト・タイム 伝説のセッション・ワークをめぐる真実のストーリー

「I Keep Forgettin'」でマイケル・マクドナルドにジェフ・ポーカロがドラムス。ルイス・ジョンソンのベースにグレッグ・フィリンゲインズがクラビネット、さらに妹のモーリーン・マクドナルド がバッキング・ボーカルと言う珍しい映像。

しかし、ジェフ・ポーカロは、1992 年 8 月 庭での作業中に 38 歳という若さで逝去する。

ジェフ・バクスター、トム・ジョンストンとマイケル

ミニット・バイ・ミニット』で亀裂の入ったジェフ・バクスターとマイケルだが、昨年2022年にリリースされたバクスターの初のソロアルバムでは仲良く共演している。

また、トム・ジョンストン離脱の後にドゥービーを乗っ取った印象のあるマイケルだが、決してそんなことはない。
テッド・テンプルマンの証言がある。
「マイケルとトムはとても上手くいっていた。それは彼ら2人共にいい人達だったからだ。マイケルは『本当にトムは大したものだ』と言っていた。自分の先導者だったトムを尊敬していた。」
亡くなったマイケル・ホサック、キース・ヌードセンに、ジョン・マクフィー、パット・シモンズ、そしてトムとマイケルが仲良く共に演奏する映像は、ドゥービーがいい人の集まりで、稀に見る結束の固いグループだったと確信できる。

大いに盛り上がった結成50th 日本公演

やはり主役はトム

さて日本公演の感想だが、まず驚いたのがコーラスの素晴らしさ。
オールドロックの公演はコーラス隊を帯同しているのが最近の傾向だが、トム、パット、マイケル、ジョン・マクフィーの4人とベースのジョンコーワンだけで素晴らしいコーラスワークを形成していた。
今やCSNやイーグルスを超えるコーラスバンドが彼らだと確信した。
メインボーカリストの3人が健在というのが強みだが、トムの声の変わらなさに驚く。
病気で離脱したので病弱なイメージもあったがまさに鉄人だ。

また、3人いるギタリストがそれぞれの個性で見せ場を作る。
特にマルチプレーヤーのジョン・マクフィーは、バクスター並みの強烈なリードギターから、スライド、ペダルスティール、フィドルと縦横無尽に楽器を操り、サウンドに彩りを与えた。

マイケルのボーカルは「Minute by Minute」からHere to Love YouMinute by MinuteWhat a Fool Believesが、本作「Takin' It to the Streets」よりTakin' It to the StreetsIt Keeps You Runnin'が、その他の2枚からYou Belong to MeReal Loveが一曲づつと25曲のうち7曲を占めた。

パットはDependin' on YouSouth City Midnight LadyClear as the Driven SnowJesus Is Just AlrightBlack Water に、新譜よりBetter Daysと6曲。トムとマイケルに挟まれつつ存在感を示した。

トムはNobodyRockin' Down the HighwayAnother Park, Another SundayEyes of Silver、Long Train Runnin'、China Grove、新譜よりEasy、Don't Ya Mess With Meと2010年作のWorld Gone Crazy
9曲。やはりライブの主軸はトムだった。

他はメンバーがボーカルを分け合う、Take Me in Your Arms (Rock Me a Little While)、Without YouListen to the Musicだが、これもトムが主役なので、やはりライブはトム・ジョンストン時代が乗れる。

アルバム別ではトム期の最高作、「Captin &Me」から5曲、後期最大のヒット作「Minute by Minute」から4曲となった。

マイケルは1976年トムの代役で参加したツアーのように、キーボードとコーラスとサイドに徹して、あくまで主役はトムとして立てている謙虚な姿勢が素晴らしい。特にここまで鍵盤を弾きまくるマイケルは珍しい。
そして、トムとマイケルの架け橋としてグループを繋ぎ止めたパットは変わりなく献身的だ。
50年間メンバーは大きく変わったが、ライブはまさしくドゥービー・サウンド。曲ごとにアコースティックやエレキとギターを持ち替え、終始笑顔だったパット・シモンズがグループの軸だと再認識もした。

Doobie 50th Live プレイリスト


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