鎌倉殿の13人 大倉幕府と頼朝の墓
以前、鎌倉に住んでいた時に毎週通っていたカフェがある。
駅近でコーヒーが美味しくて、BGMは素敵なブラジル音楽。
そのカフェ「café vivement dimanche」の名品「ムケッカ」を久々に食す。
ムケッカはブラジル北東部(バイーア州)の名物で魚介類をココナッツミルクで煮込んだ料理。ブラジルのカレーみたいなものだが辛くはない。
有名店なので場所は記載しないが、店主がブラジル音楽の方でも著名でDJや選曲でも活躍しており著作もある。
腹ごしらえが終わり、駅から徒歩圏内で「鎌倉殿の13人」を巡る旅「初級コース」が始まる。
まずは久々に若宮大路を歩き「鶴岡八幡宮」に向かう。
砂利道だった若宮大路は舗装されて綺麗になったが趣は減った。
八幡宮を正面に大河の紀行でも紹介された「六浦路」を右に向かう。
紀行によれば六浦(金沢区)には当時の港があり、そこに向かう「六浦路」を中心に鎌倉という街が発展していたと言う。
暫く歩くと「いざ、鎌倉」でも大泉演じる頼朝が「御所は大倉に決まりだ」と言い放った「大倉幕府跡」に行き当たる。
ドラマでは当初は義朝の館があった「亀ケ谷」が検討されていたが、頼朝の一声で大倉になったらしいが、京風の街づくりまで視野に入れた頼朝の慧眼が描かれていた。10月に鎌倉入りし12月には早くも御所が大倉に建立され、300余人の家人が集結し彼らは御家人と呼ばれるようになった。1180年(治承四年)のことである。
当時の鎌倉のメインが今は賑わう若宮大路周辺ではなく、寂れたこの辺りであることが窺い知れた。
そして、その近辺に鎌倉幕府草創期中枢部の要人達の墓地がある。
1199年頼朝は逝去、大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。現在の墓は白旗神社のすぐ横の急な階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられた。駅からここまで歩くこと30分、さらに急勾配の階段は中々厳しい。
頼朝の墓から降り、次の目的地である義時の墓がある法華堂に向かう。頼朝の墓より東に100メートルほど歩くと法華堂跡への石段が現れる。
頼朝の墓の近くに義時の墓を造ったのは姉の政子と想像されており、幕府草創期における頼朝、政子、義時の重要性と関係性がよく分かる。
「北条義時法華堂AR」アプリがあり現地でもその姿を体験できる。
さらに階段があり二つ目の階段を登ると政所の別当を務めた「大江広元」の墓もあった。
墓の近さから頼朝、広元、義時のトライアングルが幕府の中枢であったことがうかがい知れる。
今後大河にも登場するだろう大江広元。1221年に勃発した承久の乱で大きな役割を果たす。演じるのが真田丸で「叔父上」として名演を残した名優栗原英雄さんなので楽しみだ。
左右には義時の子、泰時の死後に勃発した北条対三浦の戦い(宝治合戦)で三浦一族と共に自刃した島津忠久と毛利季光(大江広元の四男)の墓もある。
関ヶ原で西軍についた毛利氏と島津氏の祖先の墓が並んでいる風景も感慨深い。さらには幕末に薩長となることを考えるとさらに意味深だ。
またこの下、法華堂跡の奥には宝治合戦で滅亡した三浦泰村など三浦一族のやぐらがある。1246年北条軍に攻められ一族郎党500余人が自決し葬られたところである。
大河では北条義時と三浦義村は盟友として描かれ、事実両家は協力して幕府を支えるが、次世代はこのような結末になるのが虚しい。
頼朝の墓の階段も含めて勾配のある階段が三つ。そこそこの運動ではあるが駅から徒歩圏内の史跡コースとしては初心者にはオススメのコース。
今後も「鎌倉殿」に合わせたコースを紹介する予定である。