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“セッションマン”ニッキー・ホプキンズ 名演で辿る軌跡2. 70's Best Play40
ニッキー・ホプキンズ後編。イギリスロックシーンの大物と次々と共演した60年代だが1969年に渡米。 1970年代はサンフランシスコに棲家を移して新たな局面を迎える。また途絶えていたストーンズとの復縁、そしてビートルズの面々とのソロワーク。70年代前半はキャリアの絶頂を迎えた。
ニッキー・ホプキンズの70年代プレイリスト40
ニッキー・ホプキンズの伝記映画「セッションマン」を公開初日に観た。そこで知った新事実は多かったが、特にアメリカに渡りサンフランシスコに住んでいたことは初耳だった。まずはサンフランシスコでの話から始めよう。
そして時間のない方はプレイリストで怒涛の70年代を確認して欲しい。その時間もない方は、目次のJealous Guy-featuring Nicky Hopkinsだけでも是非聴いて、ニッキーの爆発する才能を確かめて欲しい。
1.サンフランシスコ
Edward
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サンフランシスコに渡ったニッキー・ホプキンズは、1969年8月にQuicksilver Messenger Service(以下、クイックシルバー)に正式加入する。
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1970年にセッションの記録が少ないのは、グループに本格参加し拘束が増えたからだろう。クイックシルバーの数多くのライブ海賊盤にニッキーのこの曲が必ず収録されているので、避けていたライブにも本格参加していたのが伺える。このEdward, the Mad Shirt Grinderはクイックシルバーのライブで必ず演奏されており、ニッキーがゲスト扱いでなく主力メンバーであったことがわかる。
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この曲はEdwardと言うタイトルで1973年にリリースされる彼のソロアルバム「THE TIN MAN WAS A DREAMER」(邦題「夢見る人」)でも再度収録された。その後も何度も演奏された代表曲中の代表曲である。ここでスライドを弾いたのは、ジョージ・ハリスン。
John Cipollina
なぜニッキーはニューヨークでもなくLAでもなく、人口80万人と言う中堅都市のサンフランシスコに移住したのか。
前回も記載したが、Steve Miller Bandの「Your Saving Grace」をサンフランシスコで録音していると、「ジョン・シポリナとデヴィッド・フライバーグがスタジオにやって来た。どちらにも会ったことがなく、彼らは自己紹介をして、ミラーの録音が終わったらすぐにスタジオに入って欲しい、と言った」とニッキーは語る。シポリナ(John Cipollina)はクイックシルバーのギタリスト、フライバーグはベーシストで、その後にJefferson Starshipに加入する人物だ。
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クイックシルバーは主力メンバーが抜けて3人組になっており困っていた。
勧誘されたニッキーは「決め手となったのは、Mill Valleyのジョンのところに泊まれるということでした。」と語っており、Mill Valleyにあるジョン・シポリナの居候となり、家族と同居する。
これがサンフランシスコ移住の経緯だが、シポリナで過ごすニッキーの映像や故人となったシポリナの妹なども映画には登場し、Mill Valleyでのニッキーとシポリナとの友情は、この映画での見所となるのだ。
クイックシルバーでは1970年8月にリリースされた「Just for Love」、同年12月リリースの「What About Me」に参加。この「What About Me」の録音途中(5-6月頃)で脱退した。
そしてその後には盟友のシポリナも脱退するのだ。
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最後に自作のSpindrifterを残して脱退。
シポリナとニッキーは親友としてシスコで音楽活動を続け、1989年に45歳でシポリナが早世するまで続いた。
渡米したためストーンズとの仕事は減り、1970年に録音された「Sticky Fingers」への参加はSwayの一曲となった。
Mill Valleyで近くに住んでいたピート・シアーズとのバンド構想もあったが、健康の理由で頓挫している。
2.Beatles Solo & Stones
1970年にクイックシルバーを脱退したニッキーは、1971年からビートルズのポールを除く3人の作品に次々と参加しつつ、その間を縫ってストーンズのツアーや録音に参加。Jealous Guyの名演は永遠に語り継がれる。
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Jealous Guy
多くのビートルズのソロ作品に参加することになるニッキーだが、その端緒はジョンの呼びかけで参加した1968年7月11日のRevolution。高速エレクトリックピアノソロを披露し、クラプトン、ビリー・プレストンと並びビートルズに参加した数少ない外部ミュージシャンとして名を刻む。
1970年にクイックシルバーを脱退すると、1971年3月よりストーンズのイギリスツアーに参加。
ニッキーがストーンズのツアーに参加するのは初であった。これら音源はLive At University Of LeedsとしてSpotifyで公開されている。
1971年4月にはグリン・ジョンズが制作したThe Whoの「Who's Next」でThe Song is Over、Getting in Tuneに参加。
そして久々にジョンから連絡があり、1971年5月より開始したジョンの『Imagine』のレコーディングに参加する。
ニッキーが「仕事が山ほどあるって言ってたのに、一度も電話してこなかったね」と聞くとジョンは「ストーンズで忙しすぎて、君は来てくれないだろうと思っていたよ」と答えた。
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タイトル曲Imagineでは、フィル・スペクターはレコーディングの初期段階ではレノンとニッキーに1台のピアノで異なるオクターブを演奏させていた。
最終バージョンからは、ニッキーのピアノは外され、レノンのピアノとボーカル、クラウス・フォアマン(ベース)、アラン・ホワイト(ドラム)という編成になった。
一方、ニッキーの名演中の名演と称され本人も自己のベスト3として選ぶJealous Guy。
映画にも登場したジムケルトナーは、「ニッキー・ホプキンスみたいなピアノを弾ける人はほかにいないし、クラウス・フォアマンのベースは深い感性を伴って響く。ヘッドフォンからジョンの声が聴こえてきて、顔を上げると彼がマイクの前に立っている。ザ・ビートルズが解散したばかりの1971年、凄まじいミュージシャンでありソングライターの彼が、耳に残るこの美しい曲を歌っていた。ミュージシャンの人生でこんな瞬間は何度もあるものじゃないと回想している。」
フォアマンのベース、そしてこの曲で初参加したジム・ケルトナー(ドラム)とニッキーのトリオは、本作にも数曲参加したジョージの次作でも起用される。
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Jealous Guy-featuring Nicky Hopkins
こちらはジョンの公式にある「Elements Mix - featuring Nicky Hopkins」という動画。歌を抜いてニッキーのピアノだけを取り出しているが、これ自体が一つの楽曲としても素晴らしい。
オノ・ヨーコもこう話している。「”Jealous Guy”でのニッキー・ホプキンスの演奏はメロディックで美しくて、いまもなお人を涙させる」と。そしてこのヨーコは映画に賛同し、ジム・ケルトナーを紹介してくれた。
エレピを弾くニッキー、スライドを弾くジョージの動く映像が見れるHow do you sleep?
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Exile On Main Street
71年7月には南フランスに行われた『Exile On Main Street』のレコーディングに参加。メンバーと共に合宿形式で参加し、一度離れたストーンズとの深い縁が復活する。11月までこの録音は続いた。一部の曲を除いてこのストーンズの最高傑作に全面的に参加した。特にLoving Cupは曲全体をニッキーのピアノが支配した。
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『Exile On Main Street』は以下をお読みいただきたい。
1972年6月からはストーンズの北米ツアーに参加する。
その後ニッキーは1973年のツアーには参加するものの、健康が悪化し1973年の欧州ツアーに参加できず、その後はゲスト出演を除いてストーンズのライヴで再び演奏することはなかった。
『Exile On Main Street』リリース後の72年の北米ツアーをとらえた映像はAmazon Primeで観ることが出来る。
Living in the Material World
1972年9月カーリー・サイモンのアルバム「NoSecrets」に、ニッキー、ケルトナー、フォアマンの強力トリオで参加。Night Owlにはポール&リンダ・マッカートーも参加している。
そして1972年10月にはジョージの『Living in the Material World』の録音に入ります。ここでもニッキー、ケルトナー、フォアマンがそしてゲーリー・ライトがオルガンで加わる。
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映画ではケルトナーが語り部となり、Give me loveのニッキーの演奏について語られる。この曲では、ニッキー、ケルトナー、フォアマン、そしてジョージがベストのプレイを展開する。
さらに、この曲The Light That Has Lighted the Worldもニッキーのリリカルなピアノプレイが全編を支配し、ジョージのスライドと絡み合う。Jealous Guyと並ぶ名演と評しても差し支えないだろう。ジョージにとっては平凡な曲もニッキーのピアノで名曲らしく聴こえてしまう魔力があった。
Living in the Material World作については以下に詳しく記載されている。
3.ソロアルバム
THE TIN MAN WAS A DREAMER
このLiving in the Material Worldと同時期にニッキーのソロ「THE TIN MAN WAS A DREAMER」(邦題「夢見る人」)も録音されたのだ。
平日はジョージ、土日はニッキーのソロと掛け持ちで録音。
デビッド・ブリッグス(David Briggs)がプロデュースしているが、彼はニール・ヤングのプロデュースでも知られ1970年には「After the Gold Rush」を担当しその後も10枚以上を共同プロデュースした。
ジョージ、クラウス・フォアマン、そしてミック・テイラー、クリス・スペディング、ジム・ホーン、ボビー・キーズ他がゲスト参加した。
Waiting for the BandやEdwardではジョージ・オハラの変名で参加したジョージのスライド・ギターが聴ける。
Pig's Boogieにはクリス・スペディング、ジム・ホーン、ボビー・キーズが参加。
Jerry Lynn Williams
Jerry Lynn WilliamというSSWがいる。当時はJerry Williams(ジェリー・ウィリアムス)と名乗っていたが、この歌手のデビューアルバムにニッキーは72年全面的参加した。本作はニッキーのソロと同様にDavid Briggsがプロデュース。ニッキー以外にも、ニルス・ロフグレン(g)、チャック・レイニー(b)、コーネル・デュプリー(g)、バーナード・パーディ(ds)と豪華メンバーが参加した知られざるスワンプの名盤。
プロコルハルムの名曲A Whiter Shade Of Pale(青い影)はあの印象的なOrganではなく、ニッキーのピアノをバックに歌い上げている。
この後はJerry Lynn Williamと改名し、クラプトンやボニー・レイットなど多くのミュージシャンに楽曲を提供し成功する。特にクラプトンとの関係は濃厚で80年代、彼の楽曲を2作において計8曲も取り上げている。
Forever ManそしてRunning on Faith、Pretedingが有名。Running on Faithを自身のソロ「Peacemaker」(1989)でも取り上げているが、ニッキーもピアノで参加した。他にもジョン・オーツがコーラスとギターで参加していて、珍しい共演が実現した。
このジェリー・ウィリアムスを気に入ったニッキーとDavid Briggsは、ニッキーのソロ「THE TIN MAN WAS A DREAMER」に参加させている。そして4曲を共作し、リード・ヴォーカルまで取っていたのである。このDollyも2人の共作でウィリアムスがボーカルだ。ギターはミック・テイラー。
4.Beatles Solo & Stones
Photograph
『Ringo』に後日収録されるジョージとの共作Photographは1972年後半、ジョージの『Living in the Material World』のセッション中に、ジョージをプロデューサーとして初めて録音された。翌年の3月には、ロサンゼルスのザ・サンセット・スタジオで再度録音し、ここにもニッキー、クラウス・フォアマン、ジム・ケルトナーがリンゴ、ジョージと共に参加した。
そして「Ringo」に収録され、1973年9月にシングルリリース、リンゴにとっては初の全米一位となる。
映画ではグレッグ・フィリンゲインズが実演し、この曲のイントロのピアノはニッキーの最高のプレイと称賛している。まさにその通りでインパクトのあるイントロ、そして後半には主旋律から離れて遊ぶ彼のソロがフェイドアウト辺りで聴かれる。
Angie
この頃のニッキーはサンフランシスコのMille Valleyを拠点としつつ、ロンドン、南フランス、ニューヨークと世界各地を飛び回っていたが、サンフランシスコでも録音をしていた。1972年地元のカントリーロックバンドで、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアが所属していたこともあるNew Riders of the Purple Sage。この「Powerglide」のDim Lights, Thick Smokeでピアノを披露している。
そして1972年11月はジャマイカに飛び、本人がベスト5の一つとして選んだストーンズのAngieを録音。
1973年8月にシングルとしてリリースされたAngieは、米国のビルボードですぐにトップになる。また1981年リリースのWaiting on a Friendもこの頃の録音である。そしてニッキーのストーンズでの録音は1979年「Emotional Rescue」ヘの参加が最期となる。
1973年には所属していたSweet Thursdayのジョン・マークのマーク・アーモンドの『73』に参加。Home To Youではピアノを聴かせてくれた。
Walls and Bridges
1974年1月~4月はThe Whoの映画「Tommy」のサウンドトラックに、ピアノ&編曲として全面的に参加して貢献。
1974年7月〜8月にニッキーはケルトナー、フォアマンにジェシー・エド・デイビスらを加えて録音された『Walls and Bridges』に参加。ジョンの集大成として最高傑作としても評される。
#9 DREAMではニッキーは珍しくエレピを弾くが、Revolutionでもジョンはニッキーにエレピを弾かせている。当時の恋人メイ・パンがバックボーカルで参加。#9 DREAMはシングル9位、本作はアルバムチャート1位となる。
5.ジェリー・ガルシア
1975年4月には「The Who by Numbers」に参加。
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そして1975年8月、ニッキーはジェリー・ガルシア・バンドに加入した。これは、ガルシアがグレイトフル・デッドの活動休止期間中に開始したプロジェクトで、そこに主要メンバーとして参加した。
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ニッキーの曲、Pigs BoogieやEdwardも演奏している。
しかし、アルコール問題が浮上し演奏が不安定になり、12月31日の公演を最後に脱退した。ライブアルバム「Let It Rock: The Jerry Garcia Collection」の一枚がリリースされている。
また1976年リリースのジェリー・ガルシアのソロ「Reflections」にも参加している。Jefferson Airplane、Steve Miller Band、Quicksilver Messenger Service、そしてデッドのジェリー・ガルシア・バンドへの参加と、ニッキーがシスコで重きを置かれた存在であったことは確かだ。
70年代後半辺りから飲酒とドラックが酷くなり彼の体は蝕まれて行く。そしてチック・コリアの助けで、薬物リハビリテーション・プログラム施設に入るという新事実も映画で明かされた。
1977年Jennifer WarnesがカバーしたストーンズのShine a Lightに参加。
1977年を最後にサンフランシスコを離れて、LAに移住するが好転することはなく、仕事も減少し不遇の時代となる。
6.親友たち
ジョー・コッカー
ニッキーの親友と呼ばれる男は3人いる。1人はジョン・シポリナ、そして2人目がこのジョー・コッカー。「ジョー・コッカーとの仕事は、私にとって一番の思い出だ。彼は本当に素晴らしい人で、一緒に素晴らしい時間を過ごした。彼は見た目も音も最高だし、何年も経って彼が大成功を収めているのを見るのも嬉しい。」と語る。
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彼がジョン、ストーンズと共にベスト3に選ぶのがYou Are So Beautiful。
意外にも作者はニッキーと共にストーンズの常連ビリー・プレストン。
この曲は1974年にリリースされた「I Can Stand a Little Rain」に収録。
その後はニッキーはコッカーのツアーバンドに参加し、各地でライブを行い親交を深めたが、お互い過度の飲酒で健康を害するのだ。
アート・ガーファンクル
そして3人目が晩年の親友、アート・ガーファンクル。
1988年7月、自分は東京ドームでボズ・スキャッグスやビリー・ジョエルが出演した「KIRIN DRY GIGS」と銘打ったフェスの走りのようなイベントを観に行ったのだ。
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そこでビリーやボズの前に登場したのがアート・ガーファンクル。
最後にあの名曲Bridge Over Troubled Waterを熱唱、「ピアノ、ニッキー・ホプキンス!」と突然紹介された。既にニッキーの消息を聞かなくなって10年、突然その名を聞いてびっくりしたのを鮮明に憶えてる。
ガーファンクルの天使の歌声とニッキーの天国から響くようなピアノの音色がドームに鳴り響き、その日最大の盛り上がりでその後の2人を食ってしまったのだ。
この映像はロンドンでの1988年Prince's Trust concertでのもので、ここにも演奏するニッキーがしっかりと映っている。(レコードでのピアノはLarry Knechtel)
そして同じ日に録音されたSkywriterは1993年にリリースされた「Up ‘Till Now」に収録された。
また1988年リリースの「Lefty」というカヴァーアルバムにもニッキーは参加、前述のドームはその宣伝も兼ねてとのことだが、ニッキーにとっても初来日、そして唯一の日本での演奏となる。
本作に収録されたWhen a Man Loves a Woman等を歌ったアート・ガーファンクルの映像でもニッキーがサポートしている。
映画ではニッキーの再婚した妻との結婚式にも、ガーファンクルが参列したことが映し出され、晩年の親友だったことが明かされる。
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ポール・マッカートニー
1989年にはポール・マッカートニーの「Flowers in the Dirt」収録のThat Day Is Doneに参加。以前、Wingsのオーディションを受けたが加入が実現しなかったニッキーにとっては嬉しい参加となる。
そしてビートルズ4人のソロアルバム全てに参加した唯一のミュージシャンとなる。
そして1994年9月にニッキー・ホプキンズは、2番目の妻と移住したナッシュビルにて50歳の生涯を閉じるのだ。
「腸の手術後の合併症」だったと言う。
日本でのライブは一度きりだが、『逃亡者』、『パ★テ★オ』、『並木家の人々』、映画『ラストソング』のサウンドトラックを担当するなど日本との縁は深い。
2016年のレコードコレクターズ誌の「ベストキーボードプレーヤー」では、3位に選ばれていて日本での人気は特に高い。
今回の映画「セッションマン」も本格的な上映は日本が初めてで、初日は超満員だったが、死後30年経過してやっと報われた感がある。
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60年代の活躍はこちらから。