「努力ができない」私を救った言葉
こんにちは。
やる気があるうちに早速2回目の投稿をしてみます。
こないだ、3年ほど前に関西へ引っ越した友人が東京に遊びに来ました。
彼女は学生時代のアルバイト先で出会った4歳年上の人。
彼女と会うといつも朝方まで話し込んでしまうし、電話をしていたら一日が終わってしまう、そんな感じです。
今回もたくさんの話をしました、当然のように朝まで。
私は年上の女性は正直少し苦手でした。
どこまで行っても気を遣ってしまうし、自分の曝け出し方が難しかった。
学校や塾の先生でも、異性の方が心を開きやすかったです。
何を言っても、何を言われても、最終的には「異性だから」という理由で片づけられる関係が楽だったからなのかもしれません。
だから彼女と仲良くなれたことは私にとって、とても嬉しい出来事のひとつです。私たちはなぜか馬が合い、話始めるとずっと止まらずに話してしまいます。
彼女と話す時間が好きな理由は、「人の気持ちを100%理解することなんてできない」という概念を私達は同じように持ち続けながら議論ができるからだと思います。
だからこそ、自分の思いの丈をどれだけ話しても「面白いな」と笑ってくれる彼女との時間が私にとってはとても心地が良いのです。
彼女との時間にはもちろん「共感」も多く存在しますが、「反対意見」も同量の割合を占めています。
それでもぶつかることはなく、ただずっと楽しく口論ができるのは、人が思うことはそれぞれ当たり前に違って、自分の気持ちだけで相手を否定することの自己中さを知っているからだと思います。
人の考えや価値観を否定することは、時にその人の存在さえも否定してしまっている時があります。
人間は自分の存在価値を常に問われている生物なのではないのでしょうか。だからこそ、この空間で自分の意見に必要性がないと感じさせてしまうことこそが、その人の心のシャッターとなってしまうのです。
他人事のように聞こえて、相手によっては冷たいと感じる一面もあるかもしれませんが、どんな話も「あー面白いね」と話せる時間が私は大好きなのです。
そんな彼女が私を救ってくれた言葉があります。
ある時、「努力をしているところを見たことがない。努力ができない人なのでは」と言われたことがあります。
確かに私は何かを得るために努力をしたことがないのではないか。
すぐに人を頼るし、頼れる人も運よく周りにいた。
同じ目標を目指していても、私以上に頑張る人はいて、
それなりの結果でも満足し、そこが私の居場所なのだと決めつけていたのかな。
と自分の生きてきた道に自信が持てなくなり、不安を感じていた時があります。
そのことを彼女に打ち明けました。
「うーん、人によって何を努力というかは違うよね。私にとっては、毎日仕事に行くだけで努力かな。だから、その人のいう「努力」をしてないだけで、努力をできない人かどうかは決められない」
と言いました。
なんだか、現実に戻されたような気持ちになりました。
悪い意味ではなく、私の生きている現実に戻ってこれたのです。
いつのまにか私は自分の人生を、他人の尺で測り、それが全てだと思い込んでいたのかなと。
生きているとたくさんの言葉に傷つき、波に飲まれ、息ができているのかわからない、そんな瞬間があります。
それでも救われる言葉もあるなと。
そしてこれからもその言葉に私が救われる日は必ずあります。
落ち込んだ時、思い返す言葉が一つでもあるだけで十分頑張れるのかも
ああまた、語彙力のない文章が続いてしまいました。
でも実は、恥ずかしいなーと思いつつこれでいいのだと思う自分もいます。
そんなことは二の次で、次は何を書こうかと、ワクワクしている自分がいることが私は今1番嬉しいのです。
終わり