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キッシュが冷めないうちに【第63話】リエット試作

 「なんだかあの人苦手だなぁ・・・」
 「佐藤さんて、そんな悪い人じゃないですよ。月に2回くらいは来てくださってる常連で、気さくだし、料理を食べてもちゃんとワインを注文してくださるいいお客様ですよ」
 「悪い人だとは思ってないんだけど、ああいう料理とかワインとかに詳しい人と話すと、違和感が増すっていうか・・・」
 「違和感ねぇ、あんまり深く考えすぎないほうがいいですよ、気楽にやりましょうよ。ピザが焼けたら豚バラのリエットの試作始めますか?材料は全部そろってますよ」
 
 考えすぎかぁ、確かにそうかも。はるかさんは冷蔵庫からなにかを取り出してまな板の上に置いた。包み紙を開くと豚バラの塊で、ミルフィーユのように白みがかったグレイ色の脂と、淡いピンク色の肉の層と分離していている。これなら美味しいリエットができるはずだ。しかし、さっき言った心の中で感じている違和感って何だろう。カウンターの常連客の笑い声がここにも響いてくる。金曜の夜はこれから佳境にはいって、さらに盛り上がるのだろう。もう一度カウンターに戻って彼女と話したら、この違和感が何なのか手がかりがつかめるかもしれない。賑やかなカウンターの音に後ろ髪を引かれながら僕は調理の準備をし始めた。


 「意外と簡単なものですね、思っていたよりは全然楽でした」
 圧縮された白い蒸気が圧力鍋の弁から出始めた。あとは40分ほど待って火を止めて、熱が引いて鍋の中の圧が抜けると蓋を開くことが出来る。それまでは正直やることがない。
 「ざっくり言うと、バラ肉をサイコロ状に切って、玉ねぎとニンニクで炒めて、ハーブ類と岩塩で味付けして、白ワインと水で煮るだけだからね。あとは取り出してほぐすって作業があるんだけど、そんなの難しいわけではないし、スーパーにある食材で家庭でも作れて、簡単で安い。冷蔵庫で二週間は保存が効いて、美味しく食べられる。僕が胸を張ってお勧めできるフレンチの日常食です」
 白い蒸気が勢いを増して「シュッー」と大きな音を立て始めたので、僕は会話を中断して火力を中火から弱火に落として、キッチンタイマーのスイッチを押すと、40分のカウントダウンが始まった。
 「煮汁を蒸発させないように弱火に落としてね。圧力鍋で中火のままなら最悪水分が蒸発して焼け焦げになっちゃうよ」
 「なるほど、気をつけます」
 はるかさんはメモ帳に注意点を書き込んでいる。アンダーラインを力強く二本引いて強調しているのがわかった。
 「何か質問ある?アイフォンで動画を撮ったから、解らなかったら動画を見直せばいいだけなんだけどさ」
「今のところ特にないです。この間に洗い物を終わらせてもいいですか?」
 はるかさんは洗い物を始めると、僕は彼女の横に並んで次々と渡される皿やグラスを拭き始めた。しかし動画で手順を確認できるなんて便利な世の中だ。昔は「見て覚えろ」の世界で、なかなかパワハラ気質が抜けないが、情報の自由化で、そのうちに「何度も見返して覚えてね」なんて優しくスーシェフが言い始める、そんな時代が来るかもしれない。


 「翔太さん、さっき佐藤さんのことで違和感って言ってましたけど、違和感って何の事ですか?」
 はるかさんは洗い物を終えて、最後のワイングラスを僕に手渡すと、エプロンで手を拭いながらさっきの話を蒸し返してきた。
 「翔太さんってこの業界や、この業界のお客さんに恨み辛みでももってるんですか?時々そんな気がします」
 渡されたワイングラスを拭きながら「恨み辛み」の言葉が反芻する。確かにそうなのかもしれない。今自分にある恨み辛みってなんだろう、うっすらと凪人の影がはるかさんとオーバーラップする。腕を組みながら拳を強く握りしめて、じっとはるかさんの瞳を見つめた。

 「もう一度カウンターに言って話をしてきたらどうです?しばらくは何もすることがないですし、ミカさんと一緒にお客さんとしゃべってみたらいいんじゃないかな?ほら、行きましょうよ」
 はるかさんが僕の手を取ってカウンターのほうに引っ張りはじめた。細い指先が僕の手に触れると、さっきまで洗い物をしていた手はひんやり冷たかったが、僕の指はやたら熱く感じる。脚に力を入れて踏みとどまればいいだけなのに、自然とはるかさんを追うようにヨロヨロと動き出す。顔から火が出ているような気がして、胸の鼓動を悟られないように大きく深呼吸をした。カウンターへの入り口ではるかさんは手を離すと、僕の背後に回ってドンと背中を押した。僕はよろけるようにカウンターの中に入ると、カウンターの客全員の会話がとまった。全員の視線が僕に集まり、「どうも」と一言挨拶をするとこめかみから汗が一粒流れて落ちた。

 
 
 
 
 
 


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