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父を超える。/福永祐一考。

一昨年の12月、香港シャティン競馬場で開催された香港スプリントで、複数の馬が転倒し、騎手が落馬する事故が起きた。

目を覆いたくなるような映像で、いち競馬ファンとしては、できることは馬と騎手が無事であることを祈るばかりだった。

しかし、残念なことに香港馬アメージングスター、ナブーアタックは予後不良となってしまった。

ただ、落馬した馬に騎乗していた、ヒューイットソン、パートン、福永祐一各騎手は、不幸中の幸いで、競馬場に復帰できないほどの怪我には至らずに済んだ。
(同様に落馬したティータン騎手は、直後のレースにも騎乗できたようだ。)

福永騎手については、日本の多くの競馬ファンが知っている通り、父・洋一氏が落馬事故により引退を余儀なくされたこともあり、まさか同じ道を歩まないでくれよ、と祈る気持ちだった。

その後、福永騎手は無事に復帰し、2022年もジオグリフで皐月賞を制するなど活躍した。
そして、2023年2月いっぱいで騎手を引退し、調教師へ転身するという。
この記事では、これまで、自分がこの騎手について考えていたことを少し整理して書いてみた。

2023年2月9日追記。




福永洋一の息子、という出自。


福永祐一について考える上で、その出自は避けて通れないだろう。
上述した通り、福永祐一は昭和40年代〜昭和50年代始めに活躍した福永洋一元騎手の長男。

洋一騎手については自分は現役時代は知らず、理解を深めたかったこともあり、何冊か関連本を読み、このnoteでも読書感想のような形で記事にしてきた。

「騎手 福永洋一の生還」三輪和雄 著


「奇跡への祈り」和田絵衣子 著



「福永洋一・伝説への旅(「奪われぬもの」より)」後藤正治 著



これら読んだ本は、それぞれアクセントは異なるが、いずれも、福永洋一の輝かしい実績、そして落馬事故、その後の家族一丸となってのリハビリ生活について書かれている。
他の追随を許さない実績を残していたトップ騎手だったからこそ、競馬界を超え世間の注目を集め、書籍も多く出版されたのだと思う。

これらの本を読むことで、競馬の世界の厳しさについても理解が深まったし、一つの家族のドラマとして感動もした。


ここで、福永洋一の経歴と実績をごく簡潔にまとめる。

■福永洋一/経歴と実績
1948年生まれ、現在73歳。騎手デビューは1968年3月。70年から78年まで九年連続でリーディングジョッキーを獲得。G1級勝利はニホンピロムーテーの菊花賞、エリモジョージの天皇賞(春)・宝塚記念、ハードバージの皐月賞など9勝。通算勝利数は十二年間で983勝。


・・実績を見るにつけ、どうしても、もし無事であったならば・・と思ってしまう。九年連続リーディングジョッキーは武豊とタイ記録。

無事であれば、リーディングジョッキーをあと何年続けていたか・・。

未勝利に終わったダービーや有馬記念にも勝っただろう・・、
同期の岡部幸雄や柴田政人とのリーディング争いはどうなっただろう・・、
のちにデビューする武豊にとって大きな壁となって立ちはだかったのではないか・・、
長男・祐一とのレースでの父子共演は実現していたのか・・、

などなど、妄想は尽きない。


・・妄想は置いておいて、これだけの実績を父に持ち、同じ業界に飛び込んだ福永祐一。

当然、デビュー時は”あの洋一の息子”として、競馬界を超えて世間の注目を集めた。

競馬界では、「二世ジョッキー」のデビューは実はそれほど珍しいことではない。ただ、福永祐一の場合は、父が何しろ”あの福永洋一”、ということで、世間の注目は高く、関連本も多く出版されたようだ。


福永祐一本を読んだ。


福永祐一のデビューは1996年。

同年に出版された「福永祐一本」二冊を読んでみた。


「翔べ!祐一」望田市郎 著

翔べ!祐一


「福永祐一 父からの贈りもの」大場勝一 著

福永祐一 父からの贈り物 表紙


いずれも、福永祐一デビュー後間もない出版であり、デビュー2連勝を始め順調な滑り出しを見せていたとはいえ、まだまだ父の背中を追いかけ始めたばかり、という時期。

父の果たせなかったダービー制覇について、「翔べ!祐一」にこのような部分がある。

 昭和54年3月4日の事故でいきなり凍結してしまった父洋一の夢ーー ダービー制覇は、なんとか自分が引き継がねばならないと祐一は思う。
 ーー ダービーで3勝した騎手はいない。が、もし福永洋一があの事故で挫折しなければ、その快挙をなし得ただろう。
 そんなことばも聞いている。
 文字どおり”駆け出し”の自分が、居並ぶ諸先輩をさしおいて、ダービー制覇などと言うのはおこがましい。思い上がっているとか、のぼせていると言われるかもしれない。
 それを承知でやはり、まず、自分自身に対して宣言するつもりで、あえて言う。
 「ダービー制覇をこの手で!」

「翔べ!祐一」より。


「ダービー制覇をこの手で!」と語っている。(留意しておきたいのは、著者があとがきで「現在の祐一君を視座として、彼の思いや考え方や感性を十分におもんばかって綴りました。」と書いているので、当時の福永祐一がそのままこの通りの言葉で宣言したわけではないのかもしれない。)

しかし、のち、2018年にワグネリアンでついにダービー制覇を成し遂げた時、勝利ジョッキーインタビューで「福永家の悲願でした。」と語っているので、当時からダービー制覇に対して並々ならない想いを持っていたことは間違いないと思う。


福永祐一について。


祐一本を読んだり、インタビューなどで彼の語る様子を見ていると、デビュー後間もない時期から現在まで一貫して、性格がとても優しそう、周囲の人に好かれそう、という印象を持つ。

そして、それはどうも父の洋一氏との性格上での共通点でもあるようだ。
洋一氏も、あれだけの実績を積み上げながら、敵を作らない人だったという。レースではもちろん勝負師の顔だったが、一旦レースが終わると、人懐こい”洋一スマイル”をふりまき、彼のことを悪く言う人間はいなかったという。

おそらく、祐一の性格も同じ。
父親譲りで、周囲から盛り立てられる、騎手という仕事には欠かせない資質があるのだと思う。

ただ、レースにおける勝負師としての厳しさは、洋一氏の方が持っていたようだ。
一つのレースの印象に引っ張られるのも良くないが、1977年の皐月賞の直線でのハードバージの騎乗などは、ラフプレーととられておかしくないイン突きだ。(現在、youtubeで見ることができる。この記事の画像はその皐月賞のもの。)

ああいう際どい騎乗は、今の競馬では、福永祐一よりも、川田や岩田康誠の方が時折見せていると思う。

福永祐一はもちろん文句のつけようのない実績を持つ一流ジョッキーだけど、近年の円熟味のある騎乗ぶりにたどり着くまでに、ずいぶん時間が掛かってしまった気もする。
それは、その優しすぎる性格にも起因するのでは、という気がしている。

福永祐一自身、なかなか超えられない武豊に対して、ある時期から意識的にプライベートでは距離を置くようにした、と言う話もしていたと思う。(武豊と福永祐一の実家は隣同士で、幼馴染み。)
馴れ合いがあったわけではないだろうが、勝負において厳しさを持つために、必要以上の人間付き合いを減らすという方法論なのだと思う。


父を超える。


最後に、福永祐一は、父・洋一を超えたのか、と言う問いについても考えてみた。

これについては、前にも書いたけど、祐一自身が、デビュー戦後のインタビューでこのように語っていた。

いくら勝ち星を重ねても、父を超えることはできない。なぜなら、騎手ではないもうひとりの(苦しいリハビリに立ち向かい続けた)父がいるから。

「福永洋一・伝説への旅(「奪われぬもの」)」より。


父・洋一が積み重ねた「983勝」は、すでにはるかに超えた(2021年終了時点で中央競馬のみで「2517勝」)し、父が勝てなかった日本ダービーは3勝した。
ただ、祐一がいつかのインタビューで、「競馬に乗れば乗るほど背中が遠くなる。」とも語っていたし、ダービーについては、ワグネリアンでの勝利時に「福永家の悲願だった。」と述べている。

祐一にとって、父は、背中を追いかける存在ではなく、いつも見守ってくれる存在なのではないだろうか。
あるいは、共に戦う存在、と言ったら、感傷的に過ぎるだろうか。


福永祐一は現在、2月の復帰を目指しているというニュースを見た。

前人未到の、武豊でさえ成し遂げられなかった日本ダービー三連覇を目指せるだろうか。こればかりはいい相棒がいないことには厳しいとは思うが、2月の復帰であれば、トライアルレースで有望な馬を任せられ、本番に臨むことは十分に可能と思うので、万全な状態での復帰を期待している。

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