下町にあった幻の球場〜澤宮優「東京スタジアムがあった」を読んだ。
こちらの本を読み終わりました。
寡聞にして、1962年〜1972年に実際に存在した、この球場について詳しく知らず。
というのも、当時の野球はリアルタイムで知らないし、また、セリーグファン(巨人ファン)だったので、巨人の歴史に関する本は昔よく読んでましたが、パリーグ所属の大毎オリオンズ(のち東京オリオンズ、ロッテオリオンズ)について知識が少なく、この球場についても、こち亀の「光の球場!」という話で初めて知ったぐらい。
こちらが、その「光の球場!」という話の一コマ。
自転車後部に立つ少年が勘吉少年ですね。浅草から南千住までナイターがあるときは毎日通い、勘吉少年が元気な応援団長を務めて観客席を盛り上げる、みたいな場面も描かれています。
このこち亀の話を読んだ時は、「こんな下町に球場?フィクションなのかな」、とも思ったのですが、実際にあったのです。(もちろん、こち亀自体はフィクションですが、「東京スタジアム」は存在した。)
当時の南千住には高い建物はなく、ナイター開催時には照明から放たれる光が下町の街並みに瞬き、「光の球場」とも呼ばれたそうです。
この球場の建設に、私費30億円を投じたのがチームのオーナーであり、親会社で映画会社「大映」のオーナーでもあった永田雅一氏。1951年に所有馬トキノミノルで日本ダービーに勝ち、同年「羅生門」でベネツィア国際映画祭グランプリも受賞しています。すごい濃い人生ですね。
この本のタイトル「東京スタジアムがあった」には、副題として「永田雅一、オリオンズの夢」とついているように、永田オーナーの夢ーー地域のファンに愛される、強いチームをつくるーーが、東京スタジアム建設には込められていたようです。この本は、永田氏の半生記としても読むことができます。
しかし、東京スタジアムがあった時期、オリオンズがペナントレースを制したのは1970年のただ一度。
日本シリーズでは、巨人の前に一勝四敗で敗れています。
それでも、永田オーナーの夢は続いていくと思われたのですが、映画産業の斜陽により、親会社大映の経営が悪化し、1972年に球場は閉場となり、その後1977年には解体され、姿を消しました。
この本では、東京スタジアムの建設から解体までの物語と共に、強烈な個性でチーム強化に取り組む永田オーナーのエピソードが数々語られます。
球団オーナーというと、巨人のナベツネさんなどが有名ですが、永田オーナーの言動を見ると、ナベツネさんでもたいしてキャラ濃くないな、と思えるくらいアクが強いです。
深くチームビルディングに関わり、”世紀のトレード”といわれた大型トレード(主力打者の山内一弘を放出し、阪神のエース・小山正明を獲得した。)や、新監督の招聘交渉も主導します。いわゆる、ワンマンオーナーというやつです。
印象的だったエピソードが、大映の経営が悪化した時、巨人のオーナー・正力松太郎氏が、「東京スタジアムをうち(読売新聞社)に売って資金繰りをしてはどうか。」と救いの手を差し伸べたにも関わらず、人気球団・巨人に助けられるのを潔しとしなかった永田オーナーは断ったということです。
”おらがチーム・オリオンズ”を、いつか巨人を実力でも人気でも超えるチームにする、という大きな夢があったのだと思います。
夢半ばに永田氏は球団から離れ、東京スタジアムも忽然と消えてしまったわけですが、永田氏の地域密着型の球団作りの構想や、球場設計の先駆性などは、現代では再評価する声もあるそうです。
以下、荒川区の地域ポータルサイトに、往時の東京スタジアムを知る地元の方のインタビューが載っていました。当時の雰囲気がよくわかります。
当時の面影はほとんどないそうですが、一度スタジアムがあった辺りを散策してみたいな〜と思ってます。
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