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「タラレバ」の話をしよう

この世には存在しないものの話をしよう。幽霊と言われるものだったり、もしこうなっていたら・・・、なんていう仮定の話。

この「タラレバ」の話は物作りにおいて、いや一般生活全てにおいて重要なテーマである思うので、ここに記したいと思う。

この世界には今しかない

一般的には「タラレバ」の話はしてはいけないとされている。なぜなのかその理由を考えてみたい。

この場合、タラレバとは過去について言われる事が多い。

「もし、あそこでシュートが入っていれば」
「もし、あの時A社ではなくB社の株を買っていれば」

過去の話をいくらぶり返しても、どうにも変わらないのでこの「タラレバな話」をしても意味がない。だからしない方が言われている。

この意見にはBESOも賛成である。その理由は見出しにもあるように、この世界には「今」という時間しかないので、過去の話をしても意味が無いという意見と同じだ。

過去とは、今が過ぎ去った結果生まれた産物で、もうこの世には存在しない。存在するのはいつでもどこでも「今」という瞬間だけだ。

人間が何かをするには、イマ・ソコでしかする事が出来ない。だから、もうどこにも存在しない過去の話をしても何も実際にする事が出来ないのだ。

一方で、反省や検証という言葉がこの辺りで顔を覗かせる。過去の失敗や経験を分析し、考えをまとめる。これは大事な作業と言われる。

では一体どこが違うのだろう?「タラレバ」と反省や検証の違いという事だ。

BESOが想う違いは未だそこにはないもうすぐ来る今、つまり未来にあると想う。

では未来の「タラレバ」はどうなのだろうか?

未来の「タラレバ」とは?

先ほどの話の流れで言えば、あるのは「今」だけである。つまり未来も無い。なので、無い時の話をしても意味がないという理由で言えば未来の「タラレバ」も同じく意味が無い。

しかし、未来の「タラレバ」は大きく今を動かす秘密が隠されている。

今、動かす事が出来るのは、今の頭と体だけだ。今、未来の手は動かせないし、過去の手の動きを書き換えることも出来ない。

だが、今を予め形作る事は出来る。未だ来ていないが、いずれ来ると分かっている今を予め「今」作っておく。

そこで出てくるのが「タラレバ」だ。

「明日は、オレンジジュースが好きな友達が家に来る。もし今買っていれば明日は買いに行かずに友達と喋る時間がゆっくり取れるだろう」

今は無い未来の為に今出来ることがある。これは身近な話だが、1年後10年後100年後であろうとカラクリは同じだ。

そして、振り返ってほしい。今手元にある全ては昔は無かったものがほとんどだ。PC、スマートフォン、テレビ・・・。無かった時に、

「もし未来にこれがあればな・・・」

と思いを馳せたところから物語は始まる。これが未来の「タラレバ」だ。

創造とは「タラレバ」の結果

全ての創作物、産物は想いから生まれている。偶然の産物というものもよく言われる。失敗から生まれた奇跡や偶然もある。が、それらも「何かを作りたい、産み出したい」という想いがなければその失敗も無かった。

◯◯したい、◯◯が好きだ、という想いが始まりの原点だ。先ほどのオレンジジュースで言えば、友達に喜んでもらいたい、という想いから始まっている。シュートの話で言えばサッカーの試合に勝ちたいという想い。株で言えば儲けたい!という想いからだ。

そこで大切なのが、あなたの「想いは」なんですか?というポイントだ。想う事は「今」しか出来ない。

痛みは「今」痛い。悲しみは「今」悲しい。喜びは「今」うれしい。

あなたの想いは「今」の想いとリンクしていますか?もちろん「未来にどうしたい」という想いともリンクする。

明日の友達の約束にワクワクするのも「今」だ。

しかし、過ぎ去った過去に「今」悔しい想いを抱いても仕方が無い。まさしく後悔先に立たずだ。

今すべきことは、今にしか無い。もしくはいずれ来る今のことしか無い。その元となる想いにスポットを当て、その想いが幸せに導いてくれるものなかを心に手を当てて聞く。

私利私欲にならず、世のため人のため、そして自分のためになる想いからくる願いや望みの未来の為に「もし◯◯だったらいいだろうな」という想いで今すべきことをする。

昔の狩人は、獲物が子供だった場合は捕まえずに逃していた。未来に子供を産んだ後で頂くのだ。山菜を摘む場合はまだ若芽を出したばかりのものは取らずに育つのを待った。

今の資本主義はどうだろう?売れるかどうかも分からない「今」に物を作ったり、収穫したり。いるかどうかよりも売る為に「今」を生きる。幸せに生きるよりも売る為に。


さぁ、「タラレバ」の話をしよう。


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