
『八月の光』(ウィリアム・フォークナー、新潮文庫)の感想
なんじゃこりゃあ!という物語の迫力は十九世紀ロシアの作家ドストエフスキーに匹敵する。二十世紀らしい文体実験(五歳児が三歳時を回想するトラウマ的場面とか)を含むフォークナー作品は迫力1・5倍増しとも言えるだろう。
序盤の筋を簡単に書く。舞台はアメリカ南部。出産間近の娘が町にたどり着く。明らか彼女を捨てた色男を探すために。噂を頼りに工場を訊ねるが、似た名前のおじさんがいるだけ。彼女に胸キュンのおじさんが後から知るのは、色男が男とつるみ犯罪をしていたこと。二人が根城にしている屋敷が出火し、その家主である婦人のむごたらしい死体が発見されたことである。警察が問いつめて色男が言う。あの男が犯人だ、あの男は実は黒人だ、と。そしておじさんは、濃ゆい感じの世捨人(よすてびと)の元牧師に相談する。ここで犯人とされた男の現在と、幼少期から続く虐待の回想が始まる……。
「手さぐりしていたんだ。(略)ろくに動かなかった自分の心が、現実に実在すると信じ、かつ認めうるものをなんとか欲しがっていた」(p578)。『八月の光』の登場人物は時にウロンな心が信じるものを現実に求める権利がある。彼らは皆自分の人生の主人公だ。だから他者を脇役と踏みにじる暴力を日常に生む。暴力的な人物もそうでないものも、その暴力を持ち他者とぶつかる。視点や人称が交錯する文体は、この退屈で凄惨な主人公たちの暴力の場を描くためにある。
これを読ませてどうしろと言うのか。こう問うとき読者は「世捨人の牧師」ハイタワーの立場に立つ。交錯した心と現実を「砂を噛む思考の車輪」(p635)によって把握し、暴力の場と自分の関わりを生きること。このような「人間の手で神様に非難や責任を押しつけえないもの」(p631)を引き受けることによって、暴力の場ではかき消えない人間の美しさは再発見される。「出産間近の娘」リーナ・グローヴの場違いな無邪気さは、そんな感じで美しいのだと思う。