見出し画像

《大学入学共通テスト倫理》のための親鸞

大学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者を一人ずつ簡単にまとめています。親鸞(1173~1262)。キーワード:「浄土真宗」「絶対他力」「自然法爾(じねんほうに)」「還相(げんそう)」「悪人正機」主著『歎異抄(たんにしょう)』『教行信証(きょうぎょうしんしょう))』

これが親鸞

画像1

妻を持つなど、当時の決まりごとにとらわれなかった仏者です。

📝まず、親鸞は浄土宗の法然の弟子です!

鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。(略)宗旨名として「浄土真宗」を用いるようになったのは親鸞の没後である。(フリー百科事典「ウィキペディア」、浄土真宗のページから引用)

師である法然は日本の浄土宗の開祖。親鸞は「浄土真宗」の開祖として知られます。親鸞自身は開祖となる意志はなかったようですが、死後に弟子の唯円が、室町時代に蓮如が親鸞を開祖として浄土真宗の普及につとめます。人物関係を整理してみました。

📝法然と親鸞の教えは専修念仏(せんじゅねんぶつ)です!

専ら余行・雑行を捨てて、称名念仏だけを行うこと。(略)この「専修念仏」という語は、当時の法然の念仏教団において盛んに用いられていた。さらに(略)関東においても親鸞を中心に専修念仏をつとめる人々が多くいた(『親鸞読み解き事典』(林智康・相馬一意・嵩満也・岡村喜史・安藤章仁・山本浩信編著、柏書房)から引用)

法然と親鸞の専修念仏は、ざっくり言うと「南無阿弥陀仏」と唱えることです。「称名念仏(しょうみょうねんぶつ⇒仏・菩薩の名号〔みょうごう⇒名前〕を口にしてたたえること)」。

📝専修念仏は「絶対他力」の教えでもあります!

阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生し、証り〔悟り〕を得ることを他力という。(略)有限なるものの存在が絶対無限なる悟りの世界に入れるのであろうかという根本問題に気づき、そこに絶対無限なる世界からのはたらきかける他力以外に凡夫である人間が救われる道はないと解した。それが他力による救済の道である。(『親鸞読み解き事典』(林智康・相馬一意・嵩満也・岡村喜史・安藤章仁・山本浩信編著、柏書房)から引用、ただし注釈として「〔悟り〕」の語を足した)

これが法然と親鸞の「絶対他力」。念仏で救われるという簡単な見かけとは別に、人間に対する諦観からくる思想だということが分かります。人は「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぷ⇒煩悩を十分すぎるほど持つ悟れぬもの)」。ところで、この「阿弥陀仏」は本当にいいホトケさまで、悟りをひらいたのに生きもの全てが西方浄土に行けるまでそこに行かないという誓い(本願)を立て無限の時間を生きる覚者だそうです。そして、この阿弥陀仏が西方浄土におり、生きるもの全てが救われる世界がひらかれているという考えが、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗の根幹にあります。私たちに仏さまの慈愛がさしのべられているというもの。

📝法然と親鸞の専修念仏による他力は、末法世界に浸透しました!

この時代は(略)治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。(略)仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。(略)鎌倉時代、法然を開祖とする浄土宗や親鸞を開祖とする浄土真宗などは末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし称名念仏による救済を広めた。(フリー百科事典「ウィキペディア」、末法思想からの引用)

仏教で「末法」は、「最悪の時代で、悟りを開くひともいない」という時代です。ちなみに、私はこの言葉を聞くたびに漫画『北斗の拳』の世紀末を連想します。たとえば、最悪の暴力を前に無力を痛感する人々にとって、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、心に帰依する心があれば、自分や愛するものが救済されるという専修念仏が救いになったことは間違いないでしょう。記事の「本願力」は全ての人を救う誓いを立てた阿弥陀仏の力のことをこう呼びます。

📝法然と親鸞は時の権力者から流罪を命じられます!

承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。(略)法然は還俗させられ、(略)土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。(フリー百科事典「ウィキペディア」、法然のページから引用)

弟子の行動によって上皇の家来が浄土宗に入った疑いで流罪を命じられます。時の権力者が気にするほどの力を持ったということでしょう。このとき親鸞はまだ「法然の弟子」という無名の存在です。「還俗(げんぞく⇒僧をやめて普通の人に戻ること)」。「配流(はいりゅう⇒島に流罪となる)」。

📝親鸞は法然と二度と会うことができませんでした!

画像2

こちらが法然です。浄土宗の開祖であり、親鸞が心から敬った師です。法然は土佐の流罪を許され京都に戻った翌年死去します。親鸞も同時期に流罪を許されますが、師に拝顔することなく、越後で訃報を聞きます。

📝師を失った親鸞は、関東で布教を開始します!

建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため(略)常陸国に向かう。(略)笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。(略)親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。(フリー百科事典「ウィキペディア」、親鸞のページから引用)

常陸(現在の茨城県)で親鸞は絶大な評判を得ます。それを妬んだ山伏が親鸞の殺害を目論んで「稲田の草庵」に押しかけたところ、親鸞のたたずまいに心打たれて回心して帰依したという逸話があります。

📝再び、親鸞は権力者から目をつけられます!

天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧した(フリー百科事典「ウィキペディア」、親鸞のページから引用)

これは親鸞が京都に帰る理由の一つとして挙げられるもの。流罪によって京都を離れ関東に居を定めた親鸞にとって、何らかの転機と感じられたとは思います。ただ、関東の念仏者と関係を断ったわけではなく、手紙の頻繁なやりとりで教えを説いたり、息子を関東に送って教えを広めさせたり、その息子が正統を名乗り他を弾圧しはじめると、義絶を宣言したりと何かと心を砕いています。

📝京都で親鸞は、自身の思索を深めていきました!

自然の自はおのずからということであります。(略)然とはそのようにさせるという言葉であります。(略)法爾というのは如来のお誓いであります。だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。/自然といふは、自はおのづからといふ(略)然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず(略)法爾といふは、この如来のおむちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふなり。(『親鸞 歎異抄 教行信証 Ⅱ』(石田瑞麿訳、中公クラシックス)から引用/『親鸞集 日蓮集 日本古典文学大系82』(岩波書店)から引用)

これが親鸞の「自然法爾(じねんほうに)」。人間の意図や行為を超えた、信仰者に起きる救いの絶妙さを述べています。ちなみに、親鸞が京都から送った手紙を後代にまとめたものを『末灯鈔(まっとうしょう)』と呼びます。

たとえば、船頭のなかでも、安全に人を渡すものを大船頭とよぶようなものである。仏・菩薩もこれと同じように多くの人を導いて生死の大海を渡す。こうした意味があるから、善知識と名づける。/たとへば船師のよくひとを度するがゆへの大船師となづくるがごとし。諸佛菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。(『親鸞 歎異抄 教行信証 Ⅱ』(石田瑞麿訳、中公クラシックス)から引用/親鸞『教行信証』(金子大栄校訂、岩波文庫)から引用。ただし、ルビは全て省き、繰返し記号もかな表記に直した)

これが親鸞の「善知識」。衆生を導き教化するものを指す言葉です。

如来のお恵みによって、この迷いの世界にたちかえってくるすがた(還相回向)というのは、とりもなおさず世の人を教え導いて、恵みを与える地位がもたらす利益である。/還相廻向いふは、すなわちこれ利他教化の益なり。すなはちこれ必至補處の願よりいでたり。また一生補處の願となづく。また還相廻向の願となづくべきなり。(『親鸞 歎異抄 教行信証 Ⅱ』(石田瑞麿訳、中公クラシックス)から引用。「還相」の傍点を省いた/親鸞『教行信証』(金子大栄校訂、岩波文庫)から引用。ただしルビは全て省き、繰返し記号も直した)

これが親鸞の「還相(げんそう⇒悟りをひらいたものが他を救いのこの世に戻ってくること)」。「往相(浄土をめざして人を導く)」と対比的な言葉ですが、「善知識」と合わせると、親鸞が仏のまなざしでもって、他者と向きあうことを心から欲した人だと思えます。

📝何より親鸞は、この世の悪と向きあったことで有名な仏者です!

「善人でさえも次生に真にして実なる西方浄土に往き生れることができる。まして悪人はいうまでもない」。そのように聖人はいわれた。/「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。(親鸞『〈定本〉歎異抄』(佐藤正英校註・訳、青土社)から引用)

これが親鸞の『歎異抄』。「悪人正機(あくにんしょうき⇒悪人を一番に救済するのが本願力だ)」および「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。「いわんや悪人をや」は師の法然の言葉とも言われますが、親鸞の「仏の他力によって全ての人が救われる」という信念の表明として有名です。善人は自力で往生しようとするが、悪人は他力にすがるほかないからより本願力を得られる、という語釈が一般的です。

たとえば、醍醐の妙薬がすべての病を治すようなものである。濁りはてたこの世の人たち、悪に汚れた多くの人たちは、金剛不壊の真心を求めて念ずることだろう。/たとへば醍醐の妙薬を一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の眞心を求念すべし(『親鸞 歎異抄 教行信証 Ⅰ』(石田瑞麿訳、中公クラシックス)から引用/親鸞『教行信証』(金子大栄校訂、岩波文庫)から引用。ただしルビは全て省いた)

これが親鸞の『教行信証』。どんな悪でも救われるということを、「善知識」による教化と改心に求めています。『教行信証』は『観無量寿経』というお経に登場するアジャセ王という意志によって父王をあやめたものを中心に論じています。つまり、そんな風に、全ての悪を阿弥陀仏のまなざしから見ようと苦心したのが親鸞です。

あともう少し「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を!

親鸞と言えば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。悪人がより成仏するというこの言葉を、『歎異抄』の記録者唯円は、善人などという自負は捨て、仏の絶対的な善の力にゆだねよという教えだと注釈する。つまり、善人に向けた言葉だと理解している。『歎異抄』は、まず悪を末法らしい「宿業」として捉えます。また殺生という悪に関わらざるを得ない人間を肯定したものとも扱われます。それだけでも時代を超えた平等の発想に立っていると言えますが、私は『教行信証』で悪の問題を問いつづけた点にすごみを感じます。眼の前の悪を、本当に受けいれることができるのかを問うている。

親鸞と言えば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。意味は悪人がより成仏するというもの。思想家吉本隆明はこれを「つまり善悪とは、もっと規模が大きいものだ」(『吉本隆明が語る親鸞』)と説明し、親鸞の認識に既成概念を破るすごさを見いだした。ちなみに、親鸞と吉本隆明は頬骨が似ています。



いいなと思ったら応援しよう!