《大学入学共通テスト倫理》のためのジャン=ポール・サルトル
大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)。キーワード:「実存主義」「対自的存在」「対他的存在」「選択」「実存は本質に先立つ」「自由の刑」「アンガジュマン」主著『存在と無』『実存主義とは何か』小説『嘔吐』
これがサルトル
第二次世界大戦戦後に「実存主義哲学ブーム」という世界的大インパクトを与えたフランス「実存主義哲学」の代表的哲学者です。
📝サルトルの思想の解放感を『存在と無』から読んでいきましょう!
◎まず、自己意識であるところの「対自」に注目します!
対自は、不安の内に自己をとらえる。いいかえれば、対自は、自己の存在の根拠でもなく、他人の存在の根拠でもなく(略)存在の意味を決定するように強いられている一つの存在として、自己をとらえる。(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅲ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p320から引用)
個であるという意識の存在が無と近接しているという無根拠。サルトルはこの不安を「実存的不安」と呼んでいたように思います。サルトルの「実存」の定義は私にはわかりにくいのですが、「実存とは常識的・社会的な見方をとりはらった真の動的な人間存在のあり方」と規定するといいと思います!
◎この「不安」でみると、「私」はスパッと2つに分断しちゃいます!
かくしてわれわれは(略)次第に存在の二つの型、すなわち即自と対自とを立てるところまで導かれてきた。(略)根本的に切り離されたこの二つの存在領域(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p68から引用)
これがサルトルの「即自的存在(事実に即した自己)」と「対自的存在(その自己を意識する自己)」。この真っ二つ感からどうやって「私」が出てくるかを『存在と無』は思考しています。
◎ところで、「対自」の無は「無限さ」と捉え返せます!
あるがままの対自は、存在しないこともできるであろうから、そのかぎりにおいて、対自は、事実のあらゆる偶然性をもっている。(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p256から引用)
「対自」がはらむ無根拠に、「あらゆる」ものである可能性がきざします。
対自は、全存在への実現的な現前を根源的な背景として、自己を、この存在への実現的な現前として実現する(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p488から引用、ただし「全」と「この」に付された傍点を略した)
「対自」という自己意識は「あらゆる」世界の存在と濃密に関わって、「この」私になるということが述べられています。意識がリアルに全世界と関わっているというにぎやかなイメージが語られています。サルトルは、神への信仰を抜きにして、超越的なものと人間が関わって生きられるヴィジョンを繰り返し語りました。
「個別的な赤を越えて赤の本質へ向かうように、存在者を越えて存在者の存在へと向かうことができるであろうか?」(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅰ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p26から引用)
ここまでの引用をみてわかることは、『存在と無』は「意識がどう成立しているか」の単に哲学的的説明ではないということです。「意識の成立にはどんなポテンシャルが眠っているか」という可能性の追求といえます。サルトルは私たちが当たり前に「色」を把握するように、個別の「存在者」がグレートな「存在」そのものを把握して生きることを意志します。「存在者」「存在」などハイデッガーの用語を継承しながらも、全く異質の方向に認識のトビラを開こうとしていると言えるでしょう(上の引用は「赤の本質」の「赤」、「存在者の存在」の「存在者」の傍点を略しました)。
◎「対自」が超越に進むのに、「対他存在」という私と格闘します!
私は、まさにこの私の対他存在が、他者と私とのトレ・デュニオンであるがゆえに、これをひき受ける。(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅲ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p255から引用)
これがサルトルの「対他(他者にとっての私)」。意識は、上の「即自」と「対自」の分断だけでなく、「他者」と「私」の分断にも出会いそれをひき受けます。なぜひき受けるのかの完璧な説明は探せませんでしたが、サルトルの「私」は積極的に他者と関わっていきます。「私は、他者から見た『私』というものが、他者と私とのつながりであるがゆえに、これをひき受ける」。「トレ・デュニオン」(⇒英語のハイフン(‐))
◎「対他存在」をひき受け、「私」は自由の究極に向かいます!
自己の究極的な可能であるところの可能へ向かって、自己を投企する。「究極的」と言うのは、(略)「外から自己を見るために自己以外の他のものである」という可能性であるからである。(略)そこには、一つの《究極》へ向かっての自己投企がある。(ジャン=ポール・サルトル『存在と無 Ⅲ』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫)p256-p257から引用、ただし「究極的な可能」の傍点を略した)
私と「対他的存在(私でないものにとっての私)」を一致させようとするとき、「私」は「私以外のあらゆるもの」と関わるやり方で自己を獲得します。「対自」が他者と生きるという最もクリティカルな瞬間に、最高の可能性を開いて自己を獲得するという話です。「自己投企」は「未来に自分の可能性をかける」程度の意味です。
📝本人的まとめを『実存主義はヒューマニズムである』で見ましょう!
人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間がみずからつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。(サルトル全集第十三巻『実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』(伊吹武彦訳、人文書院)p17から引用)
これがサルトルの「実存は本質に先立つ」。人間は現実の行為を通してかたちづくられているので、定義できるような人間の本質など先にないのだ、という話です。
人間は自由そのものである。(略)われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。(サルトル全集第十三巻『実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』(伊吹武彦訳、人文書院)p29から引用)
これがサルトルの「自由の刑」。先行者もなく己を問われ自由のなかに生きる人間を形容しています。この重い自由から行為された「選択」は、(究極を経由しているわけでもあり)全人類を選択するような責任があると論じられます。
アンガジュマンが行われるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。(サルトル全集第十三巻『実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』(伊吹武彦訳、人文書院)p64から引用)
これがサルトルの「アンガジュマン(関わること、社会参加)」。私が世界に参加するとき、他人も同じく自由に世界に参加すると欲する。全ての人間に(超越的)自由を与えること。この使命感でサルトルは、戦争への抵抗運動に関わり、植民地問題を論じ、文学者の社会参加を呼びかけ、マルクス主義を消化しようとしました。また、『想像力の問題』でイメージを、『哲学論文集』「自我の超越」で自我を論じ、これら私たちの持ちものを「超越」だと論考したり、作家フローベールの生涯を精神分析的にたどる長大な論考で芸術のポテンシャルを捉えようとしたり、サルトルは「この現実」にすごいポテンシャルを開くことに生涯意欲的な哲学者でした!
後は小ネタを!
フランスの実存主義の哲学者のサルトル。彼が具体例でよく登場させる、架空の人物の名前はピエールである。
サルトルの著述は、「ミルフィーユとエクレアと、どちらにするかを選ぶとき……」(『実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』)とか、ちょいちょいフランスムードが出るところが楽しいです!
サルトルの小説『嘔吐』。世界の存在のハンランを経験する事件を描く本作は、ロカンタンという人物が残した手記と説明される。一方、彼の書く小説と解釈したり、別の小説の素材と解釈したりする余地がある。つまり、読者はテキストの意味のハンランを経験する。『嘔吐』が最後に「さあ小説を書くぞ!」的に終わることを上みたいに形容してみました。小説『嘔吐』が哲学書『存在と無』より優れていることが2つあるかもしれません。1つは超越の感覚を得たあと、「ヒューマニスト」や「恋人」とそれを分かち合おうと意志する。ロカンタンの感覚を世界にどう展開していくか模索されています(そして、その困難も描かれています)。もう1つは小説テキストのあいまい性です。『嘔吐』はサルトルの書いた本であると同時に、ロカンタンが語っているとも感じる。このサルトルが制作した意味の多重さを、サルトルの論じた実存と合わせるとまだポテンシャルがあるように感じます。漠然とした話ですみません!