宮本浩次氏、エレファントカシマシ感想
エレファントカシマシが大好きだ。宮本浩次氏のソロ作も心から愛している。ある時期から他のアーティストと比較する気持ちが消えていた。ここだけの話だが、洋楽や過去の偉人に対しても別格だと感じている。
その実感を書くことはむずかしい。いまわたしは宮本浩次のテレビのバラエティ番組で進行上の「うそ」さえ言えない彼のまれな正直さを思い浮かべる。そして、強烈におのれを世に問うきびしい芸術家としてのすがたを。さらに「歌うことが天職だ」と穏やかに語った自由自在な歌い手の声を思う。
これら単体でもとびきり魅力的な要素が同じ「ひとつ」なのだと感じられる瞬間があるのだ。それに遭遇して以来、わたしはエレファントカシマシと宮本浩次氏についてずっと考えつづけている。未知の衝撃の余波としてそうせざるを得ないという感じで、いまも思考は全然まとまってはいない。
エレファントカシマシの楽曲「道」(『奴隷天国』所収)を聴こう。この曲はいまなんで私たちが生きているのかをストレートに問うてくる。虚飾をはいでしまえば、私たちが生きているのはたまたま生きてしまっているだけで、本当の生はおろか死に場所すらみつけられないというのだ。
シンプルだがおそろしい思考を、つきさすようなシャウトで宮本浩次氏は歌う。それははっきりと聴き手に向けられている。同時に、歌っている彼自身を貫いている。逃げ場のない思考と歌唱でどんどんと凄絶になってくる極点に、切り離してしまえば滑稽なうめき声のようなフレーズが入る。
それは聴き手である友の恋人と家族を思いやる言葉だ。ぎりぎりの生のなかでともに生きるものに情が寄せられる。それが歌のアクロバットのような歌唱の変化によって、真摯な表現者のメッセージとして、どこまでも受け手がいま生きている事実に向き合った誠実さとして発せられた。
どうだろうか。「道」のあの瞬間の高まりを私は記述できているのだろうか。すくなくとも言えるのは、知らなかった歌のひびきが私の、きっと私たちの心をうつということだ。歌唱のアイデア、思想のゆたかさ、真心のさけび、そのどれも正しそうでどれかに切り離せない輝きが感じられる。
こんな作品をこの現実に生み出した存在が、私にとって宮本浩次氏でありエレファントカシマシなのだ。
(追記:「道」はYoutubeでアルバム収録曲は聴くことはできないはず。ぜひアルバム『奴隷天国』の「道」をお聴きください。情報拡散の時代にまだシェアされていない名曲に出会ってしまうことは、エレカシ沼にはまる人に共通する体験かもしれません<(_ _)>)