
『虚無への供物』(中井英夫、講談社文庫)の感想
(ミステリ界三大奇書と呼ばれる『虚無への供物』。超魅力な本格ミステリであり、同時にアンチミステリでもある凄さはぜひ本書で確認してほしい。ここでは読後「ひっかかる」細部についてコメントしています。あと、全体についてコメントしているので筋立てがもれている箇所があります。)
実は『虚無への供物』の探偵的ベクトルは、牟礼田俊夫の予言によって開始されていると言える。彼の犯罪の予言が遊戯的探偵たちが出現したと言える。さらに言うならば、彼があやしげな予言という程度にそれを行ったために探偵たちの遊戯的側面が保存されたことになる。
牟礼田俊夫の予言の動機は、無意味な殺人に対する意味のある犯罪行為への共感だ。しかしその行為が遊戯を招き寄せている。それは彼自身を「探偵失格」とみとめることでも助長しているようだ。彼は「黒烏」においても、遊戯的な解決を再び招き寄せている。
彼の意図はまじめでも、少なくとも彼にはこのような遊戯が助長することへ防衛的な意識が欠けていることは指摘できる。牟礼田俊夫はふまじめではないだろうが、けっきょくふまじめになってしまうあやうさがいつもある。『虚無への供物』の最大の謎とは牟礼田俊夫の姿勢であるとさえいえる。
その謎を問うことは彼の友愛の姿勢を問うことでもある。探偵は無償の行為であり、だれかのために友愛的に謎と関わる行為なのだが、探偵自身の「利益」から捉えた場合遊びとなる。こう考えると牟礼田俊夫は誰かのための探偵と自分のための探偵の遊びの両方にまたがっている。
この意味で、牟礼田俊夫が奈々村久生との婚約を解消した本書後半のエピソードは重大な意味をもっている。彼女との関係にも彼の「探偵」と同じルールを見ることができる。関係は拒絶するのではなく一定にラインにとどまること。自分が本気で生きないことで友愛が維持されていく。
私は、この牟礼田俊夫がもっとも「虚無」を生きているのではないかと思ったことがある。「犯人」よりもどの遊戯的な探偵たちよりもそうなのだ。「遊び」を遊びとして完結することもできなければ、友愛に殉じることもない。そして、彼は、世界に対する絶望さえ口にしないのだ。