プルースト『失われた時を求めて』を読むのに7年半かかった話
一昨日プルーストの長編『失われた時を求めて』を読了しました。読みはじめたのが2014年4月だったことをおぼえています。7年半。なんでこんなに時間がかかったのかというと、「こいつは絶対おもしろい作品だよ!!」という手ごたえがものすごくて、本当にちょっとずつ読みつづけたからです。
こういうことは以前にもありました。私はガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』をすごくおもしろくて2日で読了しましたが、『族長の秋』は2ヵ月かかりました。『百年~』のおもしろさが読む手ごたえを倍加させ、『族長~』フレーズを少しずつ楽しみたくなる文体にのめり込んでいました。
それにしても7年半は長すぎか。集中力を上げようと付箋をバシバシ貼りながら読んでいたせいもあるかもしれません。ちくま文庫井上究一郎訳の『失われた時を求めて』は翻訳文体フェチにはたまらないフレーズの宝庫で、いままで読んだことのない彫琢された言葉の流れは見て飽きません。
なにより本作の物語に吸引力があります。第一巻で簡単に紹介を。
青年の「私」が自分の文学的才能に絶望したそのときから記憶や風景が町の眺めが不思議な快感とともに映じられる「第一部 コンブレー」、「私」の初恋の人ジルベルトの父スワンの恋愛が記述される「第二部 スワンの恋」、ジルベルトへの恋への変化とその母への関心が募る「第三部 土地の名、――名」。このなかで第二部がやばいです。
第二部ではとびきりただれた大人の恋愛が淀みない彫琢された文体で克明に語られます。そこでスワンは破滅してしまうのではと心配になるほど追いつめられる。そして、第三部でその恋愛の顛末がそっと打ち明けられることにしびれます。「私」が耳にした散歩者のいう「名」で示されるのです。
克明な記述とおなじほどの「書かれなかった物語」をスワンやオデットが生きていること。その事実が道尾秀介ばりの倒叙トリックで示されるとき、『失われた時を求めて』は登場人物を描く特別な魔法をたたえた作品だと分かります。いま私は再読しながらその魔法を味わおうと思います。
(1巻ずつ感想を書けたらとは思っていますが、いつになるやらという感じです。なにしろ読むだけで7年半のスローモーですから。第2部で犯した「語り手が知る以上のことが描かれている問題」がラストでどう解決されたか、あるいはしなくてよいかなど、今より深く解したいことは沢山あります。)