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DSDの旅①:鍵盤楽器

方々に書かれていることだが、DSDというのは縦波(疎密波)を記録したもの。縦波は、波のエネルギーが空気中を伝播する際に、波の進行方向に向かって振動が発生する。コンサートホールやレコーディングスタジオ、あるいはオーディオルームという空間で発生するのは縦波である。なぜなら、音の波の進行方向に対して垂直方向に振動が発生する横波は、分子の密接な連繋がないと発生しないのである。歌や楽器の音が伝播する空間、つまり日常の空気中は、そのような分子と分子が緊密に結合している状態ではない。

下の3つの右側の図を見てほしい。様々な巾の短冊の連続体のようになるのがDSDのイメージ図である。縦波なので、音波の進行方向に対してヤマやタニが生じない1元的な図となる。

philewebのコラムにある概念図。「元の音楽信号」の図が既に1つの主義主張を前提とする解釈であろう。このイメージであると、PCMがより「元の音楽信号」に近いように思えるはずだ。いささかミスリーディングな図式である。

縦波のDSDに対して、PCMは横波的な音の記録であるとされる。音波と聞いて普通に想起するあのヤマとタニの連続体の図は横波のイメージ図である。横波は音波の進行方向に対して分子が垂直方向に動くのでヤマとタニが形成されるのである。

少なくとも理屈の上ではよりリアルでナチュラルな表現であるはずのDSDが、市場では疎んじらている。(1)面倒だからである。(2)作品数は少ないし、(3)高額だし、(4)音圧が低くて何が良いのか分からないので、好事家しか手を出さない。(1)と(2)と(3)は致し方ない。(4)はDSDの再生はどのような仕方が望ましいのか、みんなまだまだよく分からないのである。ということで、DSDの記事を書いている。

☆小林道夫『ゴルトベルク変奏曲』のDSD256

まずチェンバロ。チェンバロというのはドイツ語に由来する。英語ではハープシコード、フランス語ではクラブサンというらしい。日本語はカタカナがあるので全部を使う。(^^) 凄いよね、日本語の異文化受容能力。指示対象の誤差や定義の固有性を放置して音だけで受容しちゃう。そのチェンバロは1400年頃には存在していたようだ。

『J.Sバッハ: ゴルトベルク変奏曲 〜小林道雄の芸術X〜』のDSD256は、ダイナミックレンジが√3であるとroonは表示する。

小林道夫さんというチェンバロ演奏の泰斗は、毎年12月のクリスマスの頃にバッハの『ゴルトベルク変奏曲』のコンサートを開催し、1972年から2020年までで49公演を行った。これだけでも信じがたい話である。しかし、2021年12月に88歳の小林さんは体調を崩されてしまい、節目となる50回目の講演はキャンセルになってしまった。2022年、夏の盛りに開催時期を移して、小林さんの50回目の『ゴルトベルク変奏曲』演奏会が実施された。小林さんの録音を多数出しているマイスターミュージックは、この夏の50回目公演を記念して、2020年12月に行われた49回目の録音を発表した。それをDSD256 (11.4MHz/1bit)で試聴した。

最初に再生した時、あっ、となった。また、ゴルトベルクで失敗したのかも、という意味で。1981年版のグレン・グールドのCD以外で、心底納得するという体験をしていない。直近ではオラフソンのFLAC(192/24)をダウンロードしたが、もう一度聴きたいとは思っていなかった。

それで、小林さんのゴルトベルクなのだが、ダイナミックレンジが狭い。チェンバロなのだから、モダンピアノと比べて狭いのは当然であるが、狭い。私は普段DSDのクラシックは、プリアンプのボリュームを11時で始めることにしている。デカいオケものでなければ、だいたいはこの11時で問題ない。それを12時にしてみると、さーっという騒音が前景にでしゃばる。このマイスターミュージックのゴルトベルク公演50回記念盤は、音圧レベルが幾分か高めになっているのであろうか。ちょっと音圧を上げただけで、頭打ちである。そこで逆に10時に下げてみると、ここでフィットした。このボリューム帯であると再生音の帯域の狭さは感じない。ヘッドルームが少しできた感じ。

しかし結果的には、こぢんまりとした再生になる。そして小林さんの演奏も奇を衒うものではなく、生真面目な演奏である。オーディオ的にはチェンバロの再生音には中高域は透明感が十全に出なければならないし、低域は多少はぼんつくくらいふくよかさがほしいのだが、ここでの再生音はマイスターミュージックらしい淡泊なもの。無酸素銅、無メッキという感じ。マイクの味わいなのかもしれないが、地味な音質は2020年の小林さんとの相性はどうだったのかと疑問に感じたしだい。

roonの表示では、小林さんのゴルトベルク・アルバムのダイナミックレンジは√3である。今更、DSDの音を買い求めるリスナーならば、この録音でDSDの特性が存分に活かされているとは思わないのではないか。

☆アンドラーシュ・シフのFLAC(96/24)

現代のピアノの巨匠の1人、アンドラーシュ・シフがクラヴィコードでバッハの録音をしている。闊達というと語弊があるかもしれないが、楽しい。シフは「クラヴィコードのおかげで、私はバッハを以前とは違ったふうに、より精緻に、より明解に聴き、演奏するようになった」と語ったようである。2018年の録音でユニバーサルから発表。アルバムのタイトルはそのまんま『J.Sバッハ:クラヴィコード』である。

アンドラーシュ・シフのクラヴィコードのバッハアルバム。FLAC(96/24)のダイナミックレンジは、√5。

そのクラヴィコードというのは、チェンバロよりも小さい。金属製の弦を鍵盤で押し下げると、下から金属製のピンが突き上げる。鍵盤を押す強さと長さで音を調整するようである。

「製作者不詳 18世紀 南ヨーロッパ 53鍵 幅116cm」という武蔵野音大所蔵のクラヴィコード。
クラヴィコードの録音に挑むアンドラーシュ・シフ(手前)

上に書いたように、小林道夫さんがチェンバロを弾くゴルトベルクのDSD256は、roonの示すダイナミックレンジでは、√3であった。他方で、アンドラーシュ・シフがクラヴィコードを弾くインヴェンションとシンフォニア、それからまた、半音階的幻想曲とフーガを収録したアルバムは、roonで√5である。曲が違うのであるが、クラヴィコードよりもチェンバロのレンジが狭くてよいものであろうか。

アンドラーシュ・シフのクラヴィコードによるバッハは楽しい。学術研究に没頭し過ぎたバッハ演奏は沢山ある。そのうちで楽しいものもあれば、そうでないものも相当数ある。シフの演奏はバロック的愉悦に満ちたものである。とはいえ、アンドラーシュ・シフもモダンピアノを捨てて、クラヴィコードだけで食っていくという話にはならないだろう。やはり楽器の表現力は小さい。「半音階的幻想曲とフーガ」(BWV903)などでは、愉悦はあるが、深みがなく、バッハに固有のスピリットというか、Geistが不在な表現となる。

アンドラーシュ・シフのフォルテピアノによるシューベルト第二集。FLAC(96/24)である。roonの表示するダイナミックレンジは√15。

その点でフォルテピアノというのは、チェンバロやクラヴィコードの本来の持ち味である素朴で明朗な愉悦と、モダンピアノのダイナミックな表現力を併せ持つ。アンドラーシュ・シフのシューベルトアルバムの第2集を、同じFLAC(96/24)で試聴したのだが、録音の良さを存分に発揮している。非常に生々しい録音で、細部まで拾いきっている。モダンと比べるとフォルテピアノの少し間の抜けた音もよく捉えている。精細で丸い。こちらは作曲がシューベルトとなり、楽器も上述の通りであるが、roonでは√15とダイナミックレンジが表記される。

DSD推しの話を書くはずであったが、ままならない。PCMだとすぐに代替案が出てくる。

☆河村尚子『夜想(ノットゥルノ)~ショパンの世界』のDSD64

DSD64は、roonの表示では√19のダイナミックレンジ。

2009年の録音である。「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」というタイトル通りに長大な曲がアルバムの最後に置かれている。後年のベートヴェン・チクルスのような激しい打鍵を織り込むような構成をとらず、むしろゆっくり目のテンポで大きな旋律のなかに襞を描き込んでいく。甘い旋律に堕しているような弾き方である。極めて甘く、輝き、繊細である。しかし微分はされない。細かく煌めく右手と大きな流れを作る甘い左手が溶けあっている。DSDの話であった。DSDの柔らかな音質とのマッチングが素晴らしい。過不足がない。いや、河村尚子の柔らかく溶け合って透明度を高めるピアノはさらなるDSD上のレゾリューションを求めている。そういう意味ではDSD256でぜひ聴いてみたいところではある。しかし、マズルカ的な土臭さを昇華してしまう河村尚子のこのピアニズムは、音の連繋のよさというというDSDの固有性を活かしているだろう。

このアルバムの河村尚子のダイナミックレンジは√19であるとroon。もっと聴きたい。何度も聴きたい。聴くたびに表情がでてきそう、と期待させるレンジだ。

☆まとめっぽいの

ポゴレリチというポーランドのピアニストの音源は以前に紹介した。ショパンのノクターンである。鬼気迫るとはまさにこのような録音で、再生した瞬間に、ぶわっとポゴレリチが鍵盤に身構える姿が出現する。息吹があり、第一音に向かう。圧倒的な生々しさを捉えた迫真の録音であるが、これはある程度音量を上げてやる必要がある。しかし、この冒頭からしばらく、ポゴレリチは控えめな音量で、ぽつりぽつりと始めているのであり、後半にかけて凄まじい音圧で、本当にピアノの弦を引き裂こうとするかのように、ばちーん、ばちーんと打鍵する。ここは冒頭の生々しさを捉えようと少し高めに設定したボリュームではクリップ寸前である。この緊迫感もまたリアルである。だが、少なくとも原音を考えるのであれば大きすぎるというのが、先日我が家で試聴してもらったクラシックマニアの弁である。このマニア氏は実際にコンサート会場でポゴレリチの演奏を聴いて、「耳が痛いくらいに」音を響かせていたとも言っていた。

イーボ・ポゴレリチ『Chopin』のFLAC(96/24)のダイナミックレンジは、√20。普通にroonのサムネイルにしていないのは、roonがポゴレリチと福間洸大郎を一緒にしてしまい、現在は福間洸大郎の写真が付いてしまっているため。。。roonのこういう音楽と様々なインフォーメーションを統合するという理念は、反感を呼びそうだが、音楽好きの発想ではないだろう。その帰結がポゴレリチと福間洸大郎の混同なのだから。くだらないから、音楽外のインフォーメーションが欲しい人だけのオプショナルなサーピスにして欲しい。音楽が好きな人は純粋な音声信号が欲しいのである。roonこそがお喋りしたり、物知りになりたい人やアイコンが並んだ画面を見て悦に入りたい人たちと、音楽好きとを混同している。

こういうことである。ポゴレリチのこの演奏はPCM音源の限界に挑む試みなのだ。このクリップ寸前のPCMがネイティブDSD録音であったらどうであったのかと邪推したくなるではないか。おまけにこれはSony Classicalである。DSDと一緒にSonyは消えていこうとしているというのか。

まとめっぽいことをいうと、モダンピアノならばDSDを活用した音楽体験をもっとしたい。DSDの固有性を活かさないといけないし、活かさない録音をDSDというだけで高額でばら撒いてきたことを反省すべきでもあるだろう。

さて、今日は縫い物をしよう。