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日本の禁酒令の歴史

神話の世界から


我が国の酒の歴史というものを興味深く見ていると、初めて酒の記述が見られるのは記紀神話になりますが、その中でも有名なのがヤマタノオロチのお話ですね。

奇稲田姫 素戔鳴尊 八岐大蛇


記紀神話では、八俣遠呂智[記]、八岐大蛇[紀]となるので、ここでは八岐大蛇にしています。

その八岐大蛇を退治したのが、皆さんもよくご存じの素戔鳴尊(スサノオノミコト)になりますが、その素戔鳴尊も須佐之男命[記]、素戔鳴尊[紀]等になるので、ここでは素戔鳴尊にしています。

その素戔鳴尊が八岐大蛇を退治する時に造らせたのが八塩折之酒(やしおりのさけ)というもので、その後も日本書記には天甜酒(あまのたむざけ)というお酒が登場します。

また大隅国風土記には、口噛酒(くちかみざけ)の記述が見られます。

新海監督の映画『君の名は』でも描かれていた口噛酒ですね。


海に浮かべた八塩折之酒(やしおりのさけ)


古事記と日本書紀を見てみると、その頃にはお酒を造っているので、それより前からお酒というものがあったのかも知れませんね。

天孫降臨の地でもある高千穂神社には夜神楽がありますが(私もその夜神楽を見たことがありますが)、そこで伊邪那岐命(イザナギノミコト)[記]と伊邪那美命(イザナミノミコト)[記]が濁酒を作っているのを見て、「なるほど」と妙に納得をしたことがあります。

伊邪那岐命と伊邪那美命


記紀神話にしてもそうですが、その頃には人は既に酒を造る技術を持っていたので、そこから現代までの間に酒に溺れる人がいてもおかしくはない訳で、そこから我が国の禁酒令を調べてみました。

前置きが長くなりましたが、今回は以前に私が調べて他所で掲載したものが見当たらなかったので、ネット等で調べたものを集めて纏めています。

日本で初めて禁酒令というものが見られるのは、大化二年。


飛鳥時代の大化の改新は教科書にも載っているので有名ですね。

その大化二年に「魚酒禁止令」が出されています。

大化二年三月甲申条(646年)飛鳥時代 調賦(貢物=税)の禁止、農民の魚酒を禁ずる「日本書紀」

持統五年五月十八条(691年) 飛鳥時代 水害等を防ぐための酒肉禁止令 「日本書紀」

持統八年十二月六日(694年12月30日)飛鳥時代 飛鳥浄御原宮から藤原宮[紀]へ遷都

和銅三年三月十日条(710年)飛鳥時代 藤原宮から平城京へ遷都

養老四年(720年)奈良時代に施行された養老律令の編目の一つ。僧尼の犯罪・破壊行為などに対する措置を定めた法律、僧尼令(そうにりょう)が施行される「続日本紀」

養老六年七月(722年)奈良時代 災害・干ばつ等により酒肉・殺生を禁ずる「続日本記」

天平四年七月(732年)奈良時代 干ばつ等に際し、酒 殺生を禁ずる 「続日本記」

天平七年の疫病・飢饉等の大流行が東大寺造営のきっかけになる

天平九年五月壬辰(737年)奈良時代 禁酒斷屠 飢饉・疫病等が流行したため「続日本記」

天平十二年十二月十五日(740年)奈良時代 平城京から恭仁京へ遷都

天平十六年二月(744年)奈良時代 恭仁京から難波宮へ遷都

天平十七年(745年)奈良時代 難波宮から平城京へ遷都

天平十八年(746年)奈良時代 群飲酒禁止令「続日本記」

天平勝宝元年(749年)奈良時代 大仏造立のため酒肉・殺生を禁ずる 「続日本記」

天平宝字二年二月壬戌条(758年)奈良時代 酒乱による闘争を防ぎ風俗を正すために民間に禁酒が命じられる(酒乱大流行のため) 「続日本記」

宝亀元年(770年) 七日間、五辛、肉、魚を禁ずる 「続日本記」

延暦三年(784年)奈良時代 平城京から長岡京へ遷都

延暦九年四月十六日(790年)奈良時代 魚酒を供するための弊害が多いので、それゆえに禁止する。農民の飲酒禁止令「類聚三代格」(るいじゅさんだいきゃく)「太政官符」(だじょうかんぷ)

延暦十三年十月二十二日(794年)奈良時代 長岡京から平安京へ遷都

大同元年(806年)平安時代 左京、右京、山崎津、難波津の酒家の甕(かめ)を封じる令

弘仁二年五月甲寅条(811年)平安時代 魚酒を提供した者の身を禁ずる勅命が下される「日本後記」

天長元年(824年)平安時代 禁酒格に準じて、違反農民に対する刑罰が「杖八十」と記されている「太政官符」

貞観八年正月廿三日(866年)平安時代 官職就任祝いの酒宴やその他の「臨時群飲」の規制、十人を超えるような酒宴や闘争に至るような過度の飲酒が厳しく禁じられる。諸司の群飲、僧侶の飲酒を禁ずる

昌泰三年四月廿五日(900年)平安時代 諸司、諸家、諸際使などに饗宴群飲を禁ずる(祭祀に関する飲酒は規制されなかった)「太政官符」

建長四年(1252年)鎌倉時代枯酒の禁」(こしゅのきん)鎌倉の民家の酒甕3万7274口を破棄、諸国市酒の停止 一軒につき醸造・保管用の甕(かめ)は一つだけで、他の甕は破壊された。

弘長三年(1263年)鎌倉時代 太政官より奈良興福寺にあてた群集宴飲を禁ずる

応永二十七年(1420年)室町時代 禅僧の飲酒、寺庵への酒の持ち込みを禁ずる

寛永十九年(1642年)江戸時代 農村における酒造を禁ずる

平安時代の延喜式に造酒司(みきのつかさ)という酒に関わる役所が記されていますが、その頃には既に朝廷のために酒を醸造する体制が整えられています。

蔵酒には酒部(さかべ)という専門の人がいて、その頃に米・水・麹を使って日本酒を仕込むことも記されている。

その後、製造方法の違う酒を寺で造りだし、僧坊酒(そうぼうしゅ)を朝廷とは別で造っていたので、神に捧げて朝廷に献上するためのものではなく、庶民の酒へと変化する。

このように何世代にも渡ってお酒を飲み続けていれば、飲み方に問題のあるご先祖さんがいてもおかしくはないですね。

禁酒令のことも、もう少しゆっくりと調べてみたいと思うので、それはまた時間のある時にでも。

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