映画字幕の舞台裏はこんなに楽しい!-7-
吉田 泉 (仏文学者)
ヌーヴェル・ヴァーグこそフランス映画
またお会いしましたね。あなたは映画が好きですか?
ヌーヴェル・ヴァーグ(Nouvelle Vague「新しい波」)という言葉をご存知ですか? 1960年あたりを中心として起こって来た、フランスの一連の若い映画監督たちの創造した、映像を通じての新しい華々しい芸術的運動です。フランス映画と言えばこのヌーヴェル・ヴァーグを連想する人も多いのではないでしょうか。
さて私は今回、ヌーヴェル・ヴァーグの映画の数々を思い出してみて、妙なことですが、まずそのタイトルの日本でのつけかたの巧みさに、改めて感激してしまいました。
タイトルのつけ方の素晴らしさ
『勝手にしやがれ』『死刑台のエレベーター』『突然炎のごとく』『昨年マリエンバードで』『大人は判ってくれない』『気狂いピエロ』『素直な悪女』『24時間の情事』……。いずれもなかなか印象に残るタイトルではありませんか?
しかしオリジナルのフランス語題名をつぶさに直訳していくと、たとえば『勝手にしやがれ』はフランス語では「息切れ(A bout de souffre)」、『突然炎のごとく』は原題「ジュールとジム(Jules et Jim)」、『大人は判ってくれない』の原題は「400回の殴打(Les Quatre Cents Coups)」、『素直な悪女』は「そして神は…女性を創った(Et Dieu... créa la femme )」、『24時間の情事』は元は「ヒロシマわが愛(Hiroshima mon amour)」、でした。
オリジナルのフランス語と日本語のタイトルとではかなり差を感じてしまいませんか? 私はこれらの日本語タイトルはいずれも「素晴らしい」の一言に尽きると思います。これらは映画の配給会社の担当者が輸入した時につけたものです。そして私はこうした方々の、タイトルにこめた並々ならぬ愛情と意気込みに喝采を送りたい気持ちです。
「息切れ」が『勝手にしやがれ』になるのもなかなかいいと思いますが、「ジュールとジム」が『突然炎のごとく』になるのは、これはもう脱帽です。『24時間の情事』というのもかなり刺激的ですね。
どこかおしゃれでかつエレガント、そうかと思うと傍若無人で難解……といったヌーヴェル・ヴァーグの特徴と魅力を日本の一般のファンにアピールして人気を確立することに大いなる役割をした陰には、こうしたタイトルの効力があると私は確信しています。
ヌーヴェル・ヴァーグの難解さ
ヌーヴェル・ヴァーグの難解さの一例をここで具体的に紹介してみたいと思います。ここで言う難解さとはあくまでも字幕翻訳上でのものです。ジャン=リュック・ゴダール監督の不朽の名作『勝手にしやがれ』(1959年)を例にとってお話しします。
主演は若き日のジャン=ポール・ベルモンドです。クルマを盗み警官を殺害したチンピラが、自分の好きだった女性(ジーン・セバーグが演じていました)の密告にあって、結局は警官隊に追い詰められてあえなく射殺される……というただそれだけの筋ですが、いかにもヌーヴェル・ヴァーグらしい斬新なカメラワークとセリフの「難解」さに満ちています。
「不老不死になって死ぬ」?
例えばこの映画の中で、ある流行作家に扮した人物が「あなたの人生の目的は?」と新聞記者に尋ねられて「不老不死になってそして死ぬことさ」とうそぶいています。これは私が字幕を担当した映画ではなかったのですが、たまたまこのシーンを映画でみて少し気になったので調べてみました。
流行作家が実際に言っているのは immortel 「不老不死」という言葉でした。実はフランスにはアカデミー・フランセーズ(フランス翰林院(かんりんいん))というのがあり、これは日本でいうなら文化勲章受章者グループみたいなもので、国が認めたインテリ組織です。つまり功なり名を遂げた、お墨付きの知識人たちです。彼らのことをフランス語では尊敬、時には揶揄をこめて 「immortel 不朽の人」と呼んでいるのです。
ヌーヴェル・ヴァーグの難解さは演出されてる?
従って流行作家は「俺はアカデミー会員にでもなってから死んでやるんだ」と、ことさら自分のスノッブ性(紳士気どりの俗物)を演出しているものと解釈できるわけです。「不老不死になってそして死ぬことさ」と言ったら、「どういうこと?」と字幕を見ている人々は思考が少しストップしてしまうことになります。理由はここでは字幕翻訳の正確さが欠けているからです。しかし、翻って考えてみると、この観客の側の思考のストップが、実はヌーヴェル・ヴァーグにこそふさわしいのではないか、という見解も可能だと私は思います。
もう一つの例を同じ映画『勝手にしやがれ』のラストシーンから挙げます。主人公がガールフレンドの密告によって射殺された直後、そばにいた刑事が彼女に向って「君はデグラスdégueulasse(「最低」の意味)だ」と呟きます。すると女性は「最低って何」(映画の字幕)と言い、さっと立ち去ります。きわめて難解なシーンです。この女性は「最低」の意味すら知らない最低な女性なのか?
しかし、物語の中では元々この女性はニューヨークから来たアメリカ人であることを考えると、ここは「デグラスdégueulasseってどういう意味?」と訳すべき所です。デグラスdégueulasseはフランス語の俗語です。フランスに来てまだ日の浅い彼女がその意味を知らないのは当然なのです。
しかし、ここでもまたヌーヴェル・ヴァーグがその時代に持っていた勢いを考えると、「最低」の意味すら知らない新しい人類がスクリーンの中にのさばっていたとしてもそのほうがイメージ醸成には好都合なのかもしれませんね。
日本人独特の感性のかかわり
ヌーヴェル・ヴァーグのイメージ、ひいてはフランスのその時代のイメージを日本で作り上げるのに、映画の分野でも日本人独特の感性が微妙にかかわっていたことが、おわかりいただけたでしょうか?
次回は最終回です。『かくも長き不在』(1961年アンリ・コルピ監督)でお会いしましょう。ではまた。
7月新刊です△
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