美術室,なんとダイナミックな場。
学園祭が近づいてきました。
生徒たちは展示するための作品をせっせと作っており,私はそれを展示するためのスペースづくりを手伝っています。
私は芸術に詳しくはないですが,観るのは好きなので,そういったスペースづくりをお手伝いさせてもらえるのはありがたく,楽しくやらせてもらっています。
美術の先生と協働して進めており,一緒に体を動かしながら,こっちの方が良いんじゃないか、あっちの方が良いんじゃないかと試行錯誤しています。
そんな感じで進めていると,改めて,芸術活動というのは,動的=dynamicなものだなあと感じます。
展示されるものはいわば「完成品」ですから,言ってみれば「動いて,動いて,(制限時間内に)ある点に着地したもの」です。着地したのですから,静的=staticなものともいえるでしょう。(そうはいっても,ダイナミックさを感じる作品は数多くありますが。あくまでプロセスと結果の話。)
そういった「結果」は,静かに集中できる場所で鑑賞するのが良い。集中していると,作品の奥行が感じられてきて,静的なものがダイナミックに動き出します。そういう瞬間に出会えるのが,芸術鑑賞の醍醐味だと個人的には思っています。
学校には,美術室があります。
最近,通常の教室と美術室では何か違いがあるのだろうかと考えていました。
美術室にもたびたびお邪魔させて頂いて,その空間に身を置いていると,ある点に気づきます。
それは,美術室には「作りかけのもの」がたくさんあるということです。
通常の教室には普通こういったものは置きっぱなしにせず,(そもそもそんなにかさばるものを教室で作らないので)職員室に持ち帰ったり,どこかしまえるところにしまうことになっています。
一方で美術室は,これは「作品を作るための場所」ですから,作りかけのものが置いてあるのは自然なんですよね。
これは場ごとの目的の違いがそうさせているのだと思いました。
つまり,通常の教室は,「情報の整理のための場所」です。国語や算数,英語,理科,社会などの教科書主体で学ぶ教科は,いわば情報の整理を行っています。
そこで重んじられるのは論理であり,秩序ですから,教室は整理されているのが自然です。ごちゃごちゃしていたら気も散って,情報の整理はうまく進みません。(これは”broken windows theory”なども関係しているでしょう)
かくして,「頭を使う」ことがメインになるものは,教室で行われることになります。他方,「身体を使う」ものは,別の教室や屋外で行われます。体育などが良い例ですね。
理科でも実験は実験室で。英語も,英会話がメインとなると身体も使っていきますから,英会話ルームを設けている学校もあります。
情報の整理やインプットではなく,情報の拡散やアウトプットを行うとなると,別の場所に移りたくなる心理が働いているのではないでしょうか。(もちろん,機材や資材が置けないなどの細かいその他の理由もあると思います。)
芸術の話に戻します。
これはクリエイティブな活動ですから,動的なものであり,動いていればあちこちぶつかります。あちこちぶつかって,段々とある形に落ち着いてくる。
ぶつかるものの種類が多ければ多いほど,作品の可能性は広がります。これはインスピレーションの話。
何が言いたいかというと,美術室はある程度ごちゃごちゃしているのが自然ではないかということです。そして,その「ごちゃごちゃ」は,多様であればあるほど良い。
アイデアやインスピレーションを得るのに,ぶつかることのできるものが多い方が創作的には良いのではないかということです。
前提として美術室はダイナミックな場所なのですから,そこではできるだけ「社会的に正しいこと」から逃れて,自由に発想できる空間でありたい。そうしたことが,スケールの大きい作品につながっていくのではないでしょうか。
もちろん,身動きの取れないほどごちゃごちゃしていて作るのに支障が出るようでは困りますが。
そんな場所に「情報の整理」の発想が介入し,それが力を持つと,場としてのメリットがなくなってしまう。一方で学校でもありますから,まったく介入させないのは,問題を生む不安を抱えることになることは理解できます。だから,バランスを探っていけると良いと思っています。
「ダイナミックな場所であること」と「多様な発想を生み出せるようにデザインすること」,そして「教育的な場でもあること」の綱引きですね。
外から教室を見た時も,普通の教室は整然としている方が落ち着きますが,身体を動かす場所は,作りかけの作品が置いてあったり,一見関係のないようなものが置いてあったり,「活動の足跡」が残っている方が自然に感じられるのではないかと思っています。
これを,「生きることは、時空間で遊ぶこと」と考えている私なりの言い方で言えば,
作りかけの作品は,プロセスが感じられるものですから「時間」を感じるものとして,一見関係ないものたちは,「空間」を飛び越えてそれらがつながるインスピレーションを楽しむものとして作用してくれるかもしれません。
そのように考えていたら,美術室は,普通の教室とは「空間づくり」や「管理」の仕方が違うのだろうなと考えるに至りました。
良い空間を作るには,そこにかかわる人々の対話が必要です。実際にその空間に身を置いてみないとわからないことも多い。
分業は多くのメリットも生み出しますが,協業の視点を忘れてしまえば,いつの間にか視野は狭くなり,自分の世界だけが大きくなって,やがては関心をなくしていきます。
関心がなくなればいらなくなるのは当たり前で,そんな人が「無駄も大事」と思っていればまだいい方ですが(本当は無駄なものなどないのですが),完全に「生産性」主義に絡めとられてしまえば,排除の方向に向かうでしょう。
これは,芸術を理解する必要があるという話ではなく,自分にとって異質と感じるものを理解しようとすると器が大きくなるというだけの話です。
そうする必要はどこにもありませんが,結果的には,そうした方が刺激があって楽しくなるでしょう。
ぶつかるものがそこにあるのですから。
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。