見出し画像

1本目の釘を打つときに既に家の設計図は完成している

説得によって人は変わるものではない。誰もが変化の扉を固くガードしており、それは内側からしか開けられない。説得によっても、感情に訴えても、他人の扉を外から開けることはできないのである。
変化の扉を開けられる人にはこれからまとめる以下の習慣についての話は非常に有意義なものとなるでしょう。
変化を恐れ扉を固く閉ざすのであれば、その手に握っているスマートフォン(親友)とともに同じような人生を自分の好きなように、自分の責任で生きてください。

人格は繰り返し行うことの集大成であり、それ故、秀でるためには、一度の行動ではなく習慣が必要である。
私たちの人格は、習慣の集大成である。「思いの種をまき、行動を刈り取る、行動の種をまき、習慣を刈り取る。習慣の種をまき、人格を刈り取る。人格の種をまき、運命を刈り取る」という格言もある。習慣は私たちの人生に決定的な影響を及ぼす。習慣とは一貫性であり、時に無意識に行われる行動パターンであり、日々絶えず人格として現れる。その結果、自分自身の効果性の程度が決まる。

ロケットがリフトオフして最初の数分間、距離にして数キロ足らずの上昇に必要としたエネルギーは、その後の数日間、約70万キロの飛行に使ったエネルギーをはるかに上回っている。
習慣の引力も非常に強い。ほとんどの人が考える以上の強さである。
先送り、短気、批判、わがままなど、人間の効果性を支える基本の原則に反する癖が根付いてしまっていたら、ちょっとやそっとの意志の力ではとても断ち切れない。
生活を多少変えるだけで断ち切れるものではない。「リフトオフ」には並み外れた努力がいる。しかし引力からいったん脱出できれば、全く新しい次元の自由を手にできるのである。

以下の内容はスティーブン・R・コヴィーさんの「7つの習慣」から引用させていただきます。

ここでは第二の習慣についてのみ触れていきます。
ぜひこれからまとめる7つすべての習慣を身に着けて、個人的成功だけでなく、社会的成功もつかみましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


1,第二の習慣 終わりを思い描くことから始める

偉人の墓を見ると、自分の中にある嫉妬心が消えてなくなる。著名人の碑文を読むと、不相応な欲望は消え去っていく。子どもの墓石の前で悲観に暮れる親の姿を見ると、私の心は張り裂けそうになる。しかし、その両親の墓を見ると、死すべき人間の死を悼む虚しさを覚える。戦いに敗れた王が敵の傍らに横たわり、宿敵同士の思想家、あるいは対立し世界を二分した成人たちが並んで葬られているのを見ながら、人間の些細な競争、派閥、論争を思うと、悲しみと驚きを禁じ得ない。墓石の日付を見る。昨日亡くなった人もいれば、六〇〇年前に亡くなった人もいる。そして私は、今生きている人たち全員がこの世を去り、全員が同時代の人間として語られる日のことに、思いを馳せる。

第二の習慣「終わりを思い描くことから始める」は生活のさまざまな場面やライフステージに当てはまる習慣だが、最も基本的なレベルで言うなら、人生におけるすべての行動を測る尺度、基準として、自分の人生の最後を思い描き、それを念頭において今日という一日を始めることである。そうすれば、あなたにとって本当に大切なことに沿って、今日の生き方を、明日の生き方を、来週の生き方を、来月の生き方を計画することができる。人生が終わる時をありありと思い描き、意識することによって、あなたにとって最も重要な基準に反しない行動をとり、あなたの人生のビジョンを有意義な形で実現できるようになる。

終わりを思い描くことから始めるというのは、目的地をはっきりさせてから一歩を踏み出すことである。目的地がわかれば、現在いる場所のこともわかるから、正しい方向へ進んでいくことができる。

仕事に追われ「活動の罠」に人はいとも簡単にはまってしまう成功へのハシゴをせっせと上っているつもりでも、一番上に到達したときにはじめて、そのハシゴは間違った壁に掛けられて打たことに気づく。結局は全く効果のない、多忙極まりない日々を送っていることが大いにありうるのだ。

成功のために犠牲にしてきたことが実は成功よりもはるかに大事なものだったと突然思い知らされることがある。
医師、学者、俳優、政治家、会社員、スポーツ選手、配管工、どんな職業においても、人は、もっと高い収入、もっと高い評価、もっと高い専門能力を得ようと努力するが、結局、自分にとって本当に大事なものを見失い、取り返しのつかない過ちを犯したことに気づくのだ。

自分にとって本当に大切なものを知り、それを頭の中に植え付け、そのイメージ通りになるように日々生活していれば、私たちの人生はまるで違ったものになるはずだ。ハシゴを掛け違えていたら、一段上るごとに間違った場所に早く近づいていくだけである。ぴょまえらはとても効率よくハシゴを上るかもしれない。上手に素早く登れるかもしれない。しかし、終わりを思い描くことから始めてこそ、本当に効果的になるのだ。

2,すべてのものは2度つくられる

「終わりを思い描くことから始める」習慣はすべてのものは二度つくられるという原則基づいている。すべてのものは、まず頭の中で想像され、次に実際に形あるものとして創造される。第一の創造は知的創造、そして第二の創造は物的創造である。

家を建てることを考えてみましょう!!!
家の設計図が隅々まで決まっていなければ、釘一本すら打つことはできない。あなたはどんな家を建てたいか頭の中で具体的にイメージするはずだ。
「二度測って一度で切る」が大工の鉄則だ。
毎日、建設現場に足を運び、設計図を見て、その日の作業を始める。終わりを思い描くことから始めなければならないのである。

ビジネスも同じである。失敗する企業のほとんどは、資金不足、市場の読み違い、事業計画の甘さなど、第一の創造でつまずいているのである。

同じことが子育てにも言える。自分に責任を持てる子に育てたいなら、そのことを頭において毎日子供と接する。そうすれば、子供の自制心を損なったり、自尊心を傷つけたりすることはないはずだ。

庭を造るなら、植物をどのように配置するか頭の中で想像をめぐらすだろうし、紙にスケッチする人もいるだろう。スピーチをするなら、事前に原稿を書く。都市の景観を整備するなら、どんな景観にするか青写真をつくる。服を作るときは、針に糸を通す前にデザインは決まっている。

→すべてのものは二度つくられるという原則を理解し、第二の創造だけでなく第一の創造にも責任を果たすことによって、私たちは影響の輪(自分の力が及ぶ範囲)の中で行動し、影響の輪を広げていくことができる。この原則に反して、頭の中で思い描く第一の創造を怠ったなら、影響の輪は縮んでいく。

3,描くか委ねるか

第一の創造が常に意識的に行われているとは限らない。日々の生活の中で自覚を育て責任をもって第一の創造を行えるようにならなければ、自分の人生の行方を影響の輪の外にある状況や他の人たちに委ねてしまうことになる。家族や同僚から押し付けられる脚本通りに生き、他社の思惑に従い、幼いころに教え込まれた価値観、あるいは訓練や条件付けによって出来上がった脚本を演じるという、周りのプレッシャーに反応するだけの生き方になる。
(大事だから全部太字にしちゃう!!!!)

これらの脚本は他者が書いているのであって、原則から生まれたものではない。私たちの内面の奥深くにある弱さと依存心、愛されたい、どこかに属していたい、ひとかどの人物とみられたいという欲求に負けて、他社が押し付ける脚本を受け入れてしまうのだ。

自分で気づいていようといまいと、また、意識的にコントロールしていようといまいと、人生のすべてのことに第一の創造は存在する。第一の創造によって自分の人生を自分の手で描く。それができれば、第二の創造で主体的なあなたができる。しかし第一の創造を他者に委ねてしまったら、あなたは他者によってつくられることになる。

人間だけに授けられている自覚、創造、良心、という能力を働かせれば、第一の創造を自分で行い、自分の人生の脚本を自分で書くことができる。言い換えれば、第一の習慣が言っているのは「あなたは創造主である」であり、第二の習慣は「第一の創造をする」習慣なのである(第一の習慣ってなんだよ!って思う人は一個前の記事をみてくだちい)

4,変わらない中心を見つける

内面に変わることのない中心を持っていなければ、人は変化に耐えられない。自分は何者か、何を目指しているのか、何を信じているのかを明確に意識し、それが変わらざるものとして内面にあってこそ、どんな変化にも耐えられるのである。

あなたが配偶者中心あるいは家族中心の眼鏡で世の中を見ていたら、真っ先に考えるのは奥さんのことだ。奥さんを喜ばせるために、残業を断ってコンサートに行くかもしれない。あるいは、業務命令だから仕方がないとしぶしぶ残業するが、奥さんが怒っているのではないか、家に帰ったら何と言って弁解しようか、奥さんの落胆や怒りをどうやって鎮めようかと気が気ではない。

あなたがお金中心の眼鏡をかけているとしたら、残業代はいくらだろうかとか、残業したら昇給査定で有利になるかもしれないな、などと考えるだろう。奥さんに電話して、今夜は残業になったと事務的に伝えるだけだ。収入のほうが大事なことぐらい妻もわかっているだろう。そう踏んでいるのだ。

あなたが仕事中心だったら、この残業命令をチャンスととらえるに違いない。仕事のことがもっと学べると思うだろう。上司の受けもよくなって、昇進にプラスになるはずだと張り切る。突然の残業命令を嫌な顔一つせず引き受けるのだから、自分で自分を褒めたいくらいだ、妻だって仕事熱心な私を誇りに思うはずだ、そんなことを考えるかもしれない。

あなたが所有物中心の生き方をしていたら、残業代で何を買おうかと考えることだろう。あるいは、残業したら職場での自分の評価が上がるだろうなと、ほくそ笑むかもしれない。明日の朝になったら、崇高な自己犠牲精神が同僚たちの話題になるだろう、、、、と。

娯楽中心なら、残業したほうがいいのではと奥さんに言われても、あなたは残業なんかせずにコンサートに行くだろう。夜まで仕事することはない、あなたにとって夜は遊ぶためにあるのだ。

友人中心であれば、コンサートに友人も誘っていたかどうかで対応は違ってくる。あるいは職場の友人も一緒に残業するのかどうかを確かめてから、どうするか決めるだろう。

敵中心であれば、会社では俺が一番やり手だと言ってはばからない人物に差をつける絶好のチャンスと見るだろう。ライバルが遊んでいる間に、あなたは奴隷のようにせっせと働いて、自分の仕事ばかりか彼の仕事まで片付ける。あなたは会社のために楽しみを犠牲にし、ライバルの彼は会社のことなどまるで考えずに楽しんでいる。そんな構図を作るわけである。

あなたが教会中心ならば、ほかの信者がそのコンサートに行くかどうか、職場に同じ教会の会員がいるかどうか、コンサートの内容に影響を受けるかもしれない。その日のコンサートの演目が、ヘンデルのメサイアであるならロックよりも高尚だから、残業せずに行ったほうが自分のイメージにはいいと判断するかもしれない。あなたが考える良い教会のメンバーが、残業を「奉仕」ととらえるか「物質的な富の追求」ととらえるかによって
判断は異なるだろう。(教会中心ってなんだよwwってワイは笑ってしまいましたすいません)

あなたが自己中心の生き方をしているなら、どうするのが自分にとって一番得か考える。残業せずにコンサートに行くのがいいのか、上司の点数を少しでも稼いでおいたほうがいいのか。この二つの選択肢のそれぞれが自分にどう影響するかが、あなたの関心の的になる。

と、ひとつの出来事をとっても、パラダイム(ものの見方)を変えればこうも違ってくる。

あなたが原則中心の生き方をしているなら、その場の感情のようにあなたに影響する様々な要因から一歩離れ、いくつかの選択肢を客観的に検討するだろう。仕事上のニーズ、家族のニーズ、祖の状況にかかわっているほかのニーズ、ジャニーズ(、、、、、、、😢)
様々な代替案の可能性、すべてを考えあわせ、全体をバランスよく眺めて最善の解決策を見出す努力をする。

第一に、あなたは他者や状況の影響を受けて決断するのではないということだ、自分が一番良いと思うことを主体的に選択するのである。意識的に様々な要素を考慮したうえで、意識的に決断を下すのだ。

第二に長期的な結果を予測できる原則に従って決めるのだから、自分の決断は最も効果的だと確信できる。

第三にあなたが選択したことは、人生においてあなたが最も大切にしている価値観をさらに深める利点もある。職場のライバルに勝ちたいから残業するのと、上司が置かれている状況を考え純粋に会社のためを思って残業するのとでは、天と地ほどの違いがある。自分で考えて下した決断を実行するのだから、その残業で経験することはあなたの人生全体に質と意味をもたらしてくれる。

第四に相互依存の人間関係の中で培ってきた強いネットワークにおいて、奥さんや上司とコミュニケーションをとることができることだ。あなたは自立した人間なのだから、相互依存の関係も効果的に生かせる。誰かに頼めることは頼み、明日の朝早く出社して残りを仕上げることだってできるだろう。

最後にあなたは自分の決断に納得している。どちらを選んだとしても、そのことに意識を集中し満足できるはずだ。

原則中心の人は物事を見る目が違うのだ、考え方も違ってくるし、行動も違う。ゆるぎない不変の中心から生まれる心の安定、指針、知恵、力を持っているから、主体性にあふれ、極めて効果得t黄な人生の土台ができるのである。

何が何だかわからないよーという人は以下の3点を頭に止めておいてほしい、

・究極的にワイらが人生の意味を問うのではなくて、ワイら自身が人生の問われているのだと理解すべきである。一言でいえば、すべての人は人生に問われている。自分の人生のこたえることで答えを見出し、人生の責任を引き受けることで責任を果たすことしかできない

・想像力は良心を伴ったときに高い次元で効果を生む

・あらゆる組織に共通する根本的な問題の一つに、自分の働き方、あるいは生き方を他人から決められるとしたら、本気で取り組むのは無理だということ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

おわり、文法がおかしかったり誤字脱字あったらごめなさい、
直しません汗汗



いいなと思ったら応援しよう!