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【感想②】「囲い込むこと」と「飛び出すこと」

よい教育とはなにか 倫理・政治・民主主義
ガート・ビースタ (2016年 日本語訳 出版)


「社会化と主体化の間で明確に区別をすることが(まだ)可能なのかどうか、あるいは我々は、全ての主体化が究極的に社会化の形式なのだということを容認するのかどうか」(152)

ビースタのこの言葉を見た瞬間、僕の記憶は10年以上遡り、学部生時代の先輩とのやり取りを思い出した。


その頃の僕は、どこにでもいる(少々頭でっかちの)教員志望の学生だった。僕の関心は、「よい教師とは何か」とか「道徳教育の本質は何か」といった教育哲学の分野にあった(今でもそうだが)。
そして最大のテーマの一つが、「教師は『囲い込み』をしつつ、子どもが『囲い込みから飛び出す』ことを期待する」という教育のジレンマについてだった。そう、これはまさにビースタの言う社会化と主体化の区別のことだった。もちろん、当時の僕はビースタなど知る由もないが。

※「囲い込み」という言葉は坂本辰朗先生がよく使っていた表現で、子どもを既存の社会、ルール、秩序にはめ込むこと。時に強権的な教え込みも含む子どもへの介入のこと。


その頃、ゼミの先輩で気の合う人がいてその人とよく教育談義をしていた。
そして、当時普及し始めていたメッセージアプリで、その先輩とこんなやりとりをした。(もう履歴が残っていなくて記憶頼みなのが悔やまれる…)
 

僕: 教師の最終的な意図は、「囲い込む」ことなんでしょうか?それとも、囲い込みから飛び出させることなんでしょうか?
先輩:「囲い込み」という実践を通してそこから飛び出させるようにするのが教師なんじゃないかな。
僕: それは突き詰めると教師の欺瞞になりませんか? 「飛び出させる」という言い方がすでに矛盾で、それは結局 教師の想定や意図の範囲内、つまり「囲い込みの中」でしかないじゃないですか。
先輩:教師は子どものことを想うがゆえに「囲い込み」をするんだと思うよ。そして同時に既存の枠組みを超えて欲しいとも思うのは自然なんじゃないかな。
 

・・・振り返ってみると、自分 若けぇなぁと思うわ。
一応補足すると、「囲い込み」はビースタの言う社会化に、飛び出すというのは彼の主体化という概念と全く同義だ。

今は先輩の言っていたことがかなり実感を持って理解できる。
だけど、当時は「囲い込み越えさせるように囲い込む」というイメージがどうしても欺瞞っぽく感じられてしまった。
きっと僕は極端だったんだと思う。もし教師の役割が社会化ならば、全力で子どもを社会化すべきだし、主体化なら全力で主体化すべきと思っていた。教師の本当の意図は主体化だけど、便宜として社会化の働きかけをするなんて、子どもを騙すというか操っているようで、とても誠実な振舞いだとは思えなかった。


「社会化と主体化の間で明確に区別をすることが(まだ)可能なのかどうか、あるいは我々は、全ての主体化が究極的に社会化の形式なのだということを容認するのかどうか」

ビースタはこう続ける、
「(この問題を乗り越えるには)主体化を生得的な理性的な潜在能力の開発として考える代わりに、我々は主体化を根源的に未来へと開かれたプロセスとしてだけではなく、同時に本質的に民主主義的なプロセスとして理解する」 


主体化は民主主義的なプロセス――おそらくビースタが言いたいのは、それは固定化された目標に向かうことではなく、ある理想に向かって進む過程そのものが本質であるということだろう。
この理解をもとにすると、「囲い込みつつそれを越えさせる」という言葉も微妙に違った聞こえ方がしてくる。学部生だったころの僕は、この微妙さを理解することはできなかったんだと思う。


曖昧なものを曖昧なまま受け入れること。
教育のジレンマを抱えたまま子どもに対峙すること。
そういったこと、頭では理解していたつもりだけど、本当はなにもわかっちゃいなかった。だから、すぐに教師辞めちゃったんだろうな。

ビースタのおかげで、久しぶりに十数年前の自分に出会うことができた。
その時から比べると、だいぶいろんな経験をした僕は、あの頃の自分に何と言ってあげようか。

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