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「十一人の賊軍」レビュー(ネタバレありです)

 この映画は、戊辰戦争で実際に起こった新発田藩の裏切りを元に笠原和夫氏が書いた脚本のプロットを映画化したものだ。元の脚本はもうないらしい。ストーリーは、新政府派の官軍に寝返ることにした新潟の新発田藩が、出兵を求める旧幕府派の奥羽越冽藩同盟軍が城から立ち退くまで、罪人たちに官軍の足止めをさせるというもの。当の十一人の罪人たちは何も知らず、無罪放免のために砦の死守という命令に従うのだが……。

 前回のヴェノムでタイトルをレビューにしてしまったため倣ったが、今回僕はただ、あるキャラクターについて少し語りたいと思って記事を書いている。

 と言ってもさすがに全体のことについて何も書かないのはいかがなものかと思うので、最初に済ませておきたい。

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 お馴染みの東映の映像、その画質とノイズ。ここからして、昭和の時代劇を復活させようという意図が見える。劇中にナレーションが入るのも非常に「らしい」。「あの東映ヤクザ映画をもう一度」こと「孤狼の血」シリーズに通底する作品だ。役者たちによる熱気のある演技と、血みどろアクションの泥臭さが、こってりした日本映画の雰囲気を強く醸し出している。二時間半ある作品だが、一切長さを感じることなく没入することができた。

 主人公である山田孝之演じる罪人の一人である政は、妻が新発田の侍に手込めにされ、その侍を殺したことで死罪となる。罪人になるまでの過程がしっかり映像で描かれており、感情移入がしやすい。他の罪人が回想シーンもなく口で境遇が説明されて終わるのに対し、如何にも主人公らしい描写だ。ところが彼はヒロイックに活躍するどころか、協調性がなく勝手に一人で逃げようとしたり、反乱しようとしたりする。ここに、この物語はヒーロー譚でも勧善懲悪ものでもない、という姿勢が見える。そんなクズっぽい政だが、その根底にあるのは何としてでも妻の元へ帰ろうという意思だ。倫理や大義を超えた彼の愛に、最後は泣かされる。

 もう一人の主人公、仲野太賀演じる鷲尾兵士郎は、政とは対照的にアクション的な見せ場も多く、性格的にも好感が得やすい。入江など他の侍と比べても罪人に対しある程度は対等に見るところがあり、その人としての真面目さに惹かれる観客も多くいるのではないかと思う。そしてその兵士郎が、自分を十一人目の賊を名乗る場面は、罪人が十人の時点で予測できたことではあるが鳥肌ものだった。藩、幕府、官軍、どこに忠義を持つのか。結果彼が選んだのは、命がけで戦った仲間たちだった。

 この二人だけではない。罪人たちは大義や正義など関係なく、ただただ己のために生き、戦い、抗う。全員が格好いい死に方をするわけでもない。それでも彼らは皆、その命が絶えるときまでもがく。その名が残るわけでもないただの使い捨てが、一人の人間としての維持と生き様を見せつけるのだ。俺たちは確かにここにいて、生きたのだと観客に訴えかけるように。


 とまあ、非常に面白い作品だったわけだが、僕の中で印象に残っているのは本作の黒幕、阿部サダヲ演じる溝口内匠だ。新発田藩の城代家老であり、領地を守るため官軍への寝返りと足止め作戦を考えた張本人。目的のため人の命を利用し続ける様は、まさに悪魔に魂を売ったように見える。

 SNSなどの感想を見ていると、彼のクズっぷりに怒りを示す人が多かった。それも単に悪役として嫌っているというよりは、彼の立場を理解した上で、「でもやっぱこいつ無理」となっている人がほとんどのように見える。僕もそうだ。板挟みになって、若すぎる殿の代わりに藩を守らなくてはならなくて、鬼になるこいつが哀れで大嫌いだ。こんなやつは救われるわけがないのだ。

 自分がもし彼の立場だったらと想像する。争いは避ける方が良いに決まっている。そのためにも同盟軍を誤魔化し、何とか官軍に合流したい。そんなとき、彼と同じ策を思いついたなら、僕は間違いなく遂行する。

 官軍に信用されるためにも、使い捨ての彼らを殺すのだって問題ない。最初から殺すつもりだったのだから。仕方ないじゃないか、他にどんな手がある?使えるものは何だって使う。守らなければならないものがあるのだから。阿部サダヲはやはり凄い。兵士郎を騙すとき、同盟軍を騙すとき、殿を前にしたとき、人を殺すとき、本音を隠した人間の嫌な部分を観客は感じる。人を前にしたときの溝口は、表情があるのにまるで面でもかぶっているようだ。

 お前のことを一番考えているのは私だと、娘に溝口は言う。彼は嘘つきだがこれは本当だろう。もし官軍との戦になれば、勝てる確率は低い。娘の命の保証はない。藩を守ることは、家族を守ることだ。そのために娘に言えないことは山ほどある。非道なことだってする。娘の思いを裏切って、罪人を殺すことだってやらなければいけない。

 溝口は刀の達人、斬首もお手の物だ。同盟軍を諦めさせるためなら、いくらでも首を落とす。顔を血まみれにしながら刀を振るう彼の顔は人間のものではない。この作戦を遂行するには、人であることをやめなければならない。

 そして彼は実戦で拳銃を使う。罪人たちが火縄銃と刀で戦ってきたことと対照的だ。兵士郎がけじめを付けるために勝負に挑んできたのに、それも彼は裏切る。何人もの侍をたった一人で鬼神の如く斬った兵士郎を確実に殺すためには、至近距離での素早い発砲が一番だ。後は部下が確実にやってくれる。まだ子供の殿にこれからの藩を任せるわけにはいかない。彼はここで死ぬことはできないのだ。

 溝口の悪としてあり方は、僕らを正義として裁く側にいさせてくれない。正義と正義がぶつかり、綺麗事なんて通用しない世界で、全て自分の肩にのしかかってくる。みんな彼の立場ならこうする。だから余計に無理だ。嫌いだ。罪人たちもそれなりのことをやってきたし、同盟軍のやつは感じ悪いけど、溝口はその誰よりも醜悪に見える。まるで自分を見ているようだ。

 そんな彼が報いを受けるとき、僕はほっとする。ざまあみろとか言いたいんじゃない。僕の中にある溝口のような考えにお灸を据えてくれたみたいで、少しだけ安心できるのだ。どんな状況だろうと、人の心と命を踏みにじるのはおかしいのだと、大義なんてろくなもんじゃないのだと、言ってもらえたように感じて、まだ今の自分が人として留まるための経験ができた気がして、僕は少しだけ晴れやかな気分で劇場を出られる。勿論、それは一時的な精神安定に過ぎない。

 溝口は戦の愚かさを一身に背負った人間だ。裏切り、殺し、それがめぐって守りたかった人の心を壊す。因果応報と言えば綺麗に聞こえる。けれども、娘の命を溝口を傷つけるための道具として捉えてはいけない。娘はこの戦の被害者なのだ。愛する夫も、共に戦った罪人たちも、皆大義のために命を落とした。その大義に守られているのは自分自身であることを娘は分かっていたはずだ。それが深い絶望となって、彼女はお腹の子と共に命を絶つ。ただ泣き崩れることしかできない溝口は、もう面をかぶっていない。

 そんな愚かな溝口を、もしかしたら自分の姿であったかもしれない溝口を、僕は胸に刻みたい。人の愚かさを叱られた気分になって、それだけですっきりして終わりたくない。

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