「自分をご機嫌に保つ」ができるママなんて普通じゃない。
今日は長男の学習発表会だった。
最近「ごめん、ごめん」という常同行動が止まらない長男。
本人も気にしている。
「今日は”ごめん”が出ないといいな」
そんなことを朝言いながらも、張り切って出掛けて行った。
学校へ行くのが嫌で、校門で泣いて暴れて先生たち3人がかりで引きづられて連れて行かれていたことが嘘のように、今はスムーズに学校に入っていける。
まだまだ不安があって、朝は送らないと行けないし、昇降口まで送って行かないと入れないけれど、それでも、一緒に歩く足取りは軽やか。
同じ支援級の男の子を「傘は外で閉じるんだよ。外でブルブルしないと、学校の中が濡れちゃうでしょ」と、30秒くらい前に私に言われたセリフで嗜める。
いつもなら、教室に入るまでに何回も私に向かって手を振る。
今日は昇降口で手を振ったきり、一度も振り返らなかった。
「木琴がんばれよ!」
今日の合奏で木琴も担当する息子に、通常級のお友達が声をかけてくれる。
そんな光景に安堵感を覚えながら、私は一度帰宅した。
・
次男を連れ、夫と、見にきてくれた義母と共に席についた。
2年生の発表。
背の大きい長男は端っこに並ぶため、列の先頭で入場してきた。
何度も深呼吸をしている。
緊張しているようだ。
口を何度も大きく「あー」という具合に開けている。
数日前から唇の乾燥とひび割れが気になっているようだけど、多分それだけではない。
「ごめん」を堪える代わりに出た常同行動が、今日は”口を大きく開ける”だったのだろう。
歌の途中でも、楽器を演奏している途中でも、「あー」という仕草は何回も出ていた。
全体を通してソワソワしていた。
服の袖を引っ張ってみたり、隣の子を気にしたり、手をぶらぶらしたり。
昨年は見られなかった姿。
1年生の時は、周りの子もソワソワ、わちゃわちゃしていたから、気にならなかったのかも。
2年生になり、周りの子たちは少しずつ落ち着いてきている。
だから、だんだんと多動や自閉の子は目立つようになる。
そういうことなのかな。
そんな風にも考えてみたけれど、そうじゃないことを私はわかっている。
2年生になって、長男は明らかにバランスを崩した。
何かのストレスで生じた二次障害。
奇異な言動が目に付くようになった。
長男の頑張りを褒めてやりたいが、今年の私は素直に褒めれらる気分にはなれなかった。
「去年はもっと”普通”だったのにな」
そんな想いが行ったり来たり。
長男は明らかに「発達障害児」であることがわかるようになった。
生活に支障を来たすようにもなった。
私は、少なからず学校生活に起因していると思っている。
だけど、それだけじゃない。
その原因は、私が作る家庭生活の中にもある。
というか、原因は私だ。
知的な遅れのない発達障害を、私は「普通になる」と今もってなお信じている。
成長すれば。
長男が過ごしやすい環境を整えさえすれば。
つまり、あれやこれやと勉強し、相談をし、長男の発達障害に対して理解を進めようと率先して動いている私が、一番、長男の発達障害を受け入れられていないのだ。
頭では解っているはずなのに。
私が努力すれば、息子は「普通」に近づくはずだと信じている。
だけど、現実はどうやらそんな簡単なことではないらしい。
学校でも、習い事でも、友達と遊ぶ時も、うちの子は周りの子と変わらない。
そう思いたい。
でも、違いがだいぶ目立つようになってきてしまった。
学校を無理させたのがいけなかったのかな。
私が怒りすぎたのがだめだったのかな。
子ども本人は言語化できないし、原因は一つじゃないから、そこを紐解くことに多分あまり意味はない。
それよりも、今こうなってしまった長男を、これからどうしていくのか、という方が大事なんだろう。
わかってるんです。
そんなことは。
置き去りにされているのは、私の気持ちなんです。
長男をうまく受け入れられないことに、ずっと悩んできた。
ただかわいい、と思えない自分をずっと責めてきた。
それは今も続いている。
それは、長男が発達障害だからかもしれない。
小さい時わからなかったけれど、私の中の何かが、異変を感じていたのかもしれない。
とにかく苦しくて、この苦しさは誰にも解ってはもらえない。
夫に話してみても、支援センターみたいなところで話してみても、その言葉に私の真の感情をうまく乗せることができない。
だから、整理された言葉だけが、上滑りしていく。
そして、誰かに理解してほしいのにしてもらえないその感情は、どんどん黒くなって私の腹の底あたりにとぐろを巻き、鋭い言葉となって子どもに牙を剥く。
そんなことを繰り返している、私のせいなのだ。
「子どもの問題は、子どものものじゃなく、あなたの中にある闇が原因」
なんてことは何度となく言われてきた。
そうなのかもしれない。
だけど、私の闇を探り、紐解き、癒すことが、果たして今やるべきことなのだろうか。
私はそうとは思えない。
私の中に何か大きな不安があることは自分でもわかっている。
それは、実母との関係に原因がある、と、これまで何人かの人に言われた。
私も、そうだな、と思ってきた。
でも、例えそうだとして、80歳になる実母と対峙することが、果たして最善の策なのか?と考えると、それはNOであることは断言できる。
それでも向き合うべきだと主張する人もいるかもしれないけれど、私は「しない」ことに「決めた」のだ。
それに、私は息子を見ていて思うことがある。
私自身も、発達障害なのではないか、と。
私の時代には、小学校で知能検査が行われていた。
それでひっかかったことはないし、大人になってからも実は知能検査と心理検査を受けていて、数値的には問題ないことは知っている。
それでも、私は、数値に問題がないだけで、かなり強めの特性を持っているだろうと思う。
いろいろ考えれば考えるほど、ドツボにはまっていき、自分のせいだという思いは深くなる。
自分のせい、というところは事実なので、なんとかしなければならない。
学校なんて行かせなければよかったな。
他の子と比べなければ、こんなに気にすることもなかったのかもしれない。
後悔もあるし、タラレバもたくさんある。
そんなことが山ほどある毎日の中で、私は自分をご機嫌に保っておくことが最善の策だと現在信じているが、これだって情報による洗脳だ。
こんな毎日を送っていて、それでも私ご機嫌、って、そんなこと思うママは、ああ、あなたもですか、って見る人が見れば思うレベル。
でも、それでも、私は毎日を心穏やかに生きたい。
ただでさホルモンに振り回される私たち。
子どもが発達障害だろうとなかろうと、お母さんじゃない私の人生があっていいはずで、お母さんの人生もお母さんという肩書きを外した私の人生も、楽しくありたいと切に願う。
子どもには幸せであってほしい。
だけど、子どものために自分の人生を捧げたいとは思わない。
ここら辺のバランスにおいて、自分の「ちょうどいい」が見つけられなくて苦しいのではないだろうか。
私の現在地は今ここ。
この「お母さん」と「自分」のバランスの具合いは人によってまちまちだ。
「子どものためなら自分のことなんて我慢してでも」と「子育てなんてまっぴらごめんだぜ。早く解放してくれ!」はきっとどのお母さんの心にもあって、その匙加減は自分で決めるしかない。
そしてどう行動したらそのちょうどいいバランスにいれるのかも、試しながらやってみるしかない。
寝ること
カフェでのんびりすること
友達とおしゃべりすること
仕事を持つこと
お金を稼ぐこと
自分を整えようとして、私が試しているのはこんなところだ。
発達障害児との毎日は、「普通」の日常ではダメだ。
そもそも「普通」ってなんなのか、についてはあえてここでは言及しないが、とにかく、体力と気持ちと時間の余裕が、普通の一般的な子育てよりも要るだろうと思っている。
母として、自分の人生を生きる者として、試されている。
今までの価値観や考えを捨てる覚悟も必要なのだ。
大事にしてきたものさえも。
それは容易ではない。
「捨てる」ことが軽やかにできれば、私の人生はもっと楽なはずなのだ。
捨ててもきっと、悪くは変わらない。
わかってるはずなのに、できない。
捨てるのは、しんどい。
だけどやらなければ、きっと何も変わらない。
「決めて」
「やる」
それだけなんだけどね。
何が人生をこんなに難しくさせているのだろうか。
P.S.
『お子さんに対して求める「普通」ってなんですか?』というナンセンスな説教にはお応えしませんので、そういうマウント的なコメントはしないでください。