未知の出来事と、発達障害児の「常同行動」のこと
今、この収録を録り終えて、感じたことがある。
私はけっこう幸せだ。
話終わって、なぜか自然とそういう気持ちになった。
スタエフで話した通り、私は今悩んでいるし、もう涙が流れていることにも気づけないくらいいっぱいいっぱいだけれど、
この変わり者長男や、まだ未開の生き物である次男との日々は愛おしい。
それはまさしく「ギフテッド」である。
うちの長男は平均IQ130じゃないのてギフテッドのカテゴリーには入らないけれど、この、ドラマチックな毎日は、私にしか経験できない、まさにギフテッドなのだ。
長男の発達障害に気付かなければ、私は子どもたちをなるべく良い高校、大学に入れようと、勉強させたり、将来的に良さそうな習い事をさせたり、【一般的にすごいと言われそうな人】を製造するために躍起になっていたであろう。
我ながら想像に難くない。
でも、もうそのステージからは降りた。
これは、子どもにとっても、私自身にとっても、ラッキーだったと思ってる。
負け惜しみでも、自分に言い聞かせる言葉でもなく、そう思ってる。
子どもたちの、素晴らしい能力を潰さずに済むだろう。
人と比べ、闘うことに価値を置かない。
「あなたが」「私が」幸せで満たされていればそれでいい。
「自分」を精一杯生き切ること。
それは自己中心的なのでは?とかそんなのは捻くれた思考であって、本当は誰だってそこが原点なはずなのだ。
自分に優しいから自分以外にも優しくできるのだよ。
しつこいけれど、私は今悩んでるしストレスに満ちているけれど、こんな風に思ったので書き留めておいた。
そう、私たちは生きていくしかないのだ。
死ぬことなんて簡単ではないのだ。
だったら明るく楽しく生きていきたいのだ。
最期の時に「いい人生だったな」と心から言う、という目標のために。