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【本の紹介】『月の影 影の海』#好きなものについて大いに語る会


 自分は他の人とは異なり特別な存在である。近々、別の世界へ呼び出され、その世界でスポットライトを浴びて輝かしい生活をすることになるのだ。

 という妄想をしたことがあるだろうか。私はある。いわゆる中二病、いわゆる異世界転生願望である。

 中二病当時、女子の中ではセーラームーンが人気だったが、私がハマったのはCLAMP原作のレイアースだった。東京タワーに社会科見学で訪れたときに突然、光に包まれ異世界へ行くというストーリーだ。

 セーラームーンはこの世界に言葉をしゃべる猫とか敵とかが来る。リア充の月野うさぎ及び大多数の華やかな女性陣にはウケが良いが、人生に失敗した感のあるオタクにはウケない。オタクは、もし私もあの時東京タワーにいて一緒に光に包まれていたら、異世界へ飛ばされていたかもと妄想する。

 なお、一緒に飛ばされるだけではダメだ。やはり向こうの世界である程度の地位とか何らかの権力等、とにかくちやほやされたいのだ。ただの農民になりたいわけではない。

 そんな現実逃避を繰り返す私の側頭部をかち割ってくれたのが、今回の本『月の影 影の海』である。


 この話は異世界ものである。しかも異世界で主人公は一国の王様だ。外国なのに言葉はペラペラ、剣の腕はピカイチ、金髪のにいちゃんにかしずかれる。

 異世界でチートスキルだ。なのに、辛い。これでもかというくらい辛い。
そうか、異世界に行けても、これだけの条件が揃っていても、リアルに考えるとそうだよな、と現実を理解し、私は中二病を克服した。その記念碑的な物語である。


 『月の影 影の海』が発売されたのは1992年。それから30年超の月日が流れ、現在この「十二国記」シリーズは10作15巻。シリーズ累計で1280万部を超えた。

 30年で10作は少ない、と思う方もいるだろう。当初10年は比較的連続して出版されていたが、それから著者の体調不良によりペースが落ちたようだ。もう続きは無いのだと諦めていたため、2019年の新刊発売報道はファンにとっては大事件だった。2001年に発売された話の続きとして書かれた新刊を貪るようにして読んだ。8年も空いていたのに内容を覚えていた。私のつるつるの脳みそにこれだけ鮮烈な印象を刻んでくださる小野不由美の筆力は圧倒的である。


 はじめて手に取り読んだ時から何十年経っても愛を叫びたくなるのは、ストーリーやキャラクターだけではなく、この世界観の緻密さだろう。

 ファンタジーを書くのは難しい。書こうとしたことがある方は分かると思うが、少なくとも私は世界設定でつまづく。例えば、文明はどこまで発展しているのか。剣のような武器があるなら鋳造技術が必要だし、それが取れる採掘場があり、体力のある男性が働き、パワーの出る食べ物が必要だ。だが、狩猟のみの文明では厳しい時期があるかもしれない。農耕をするなら村や街ができるが、何を育て、どう調理するのか。小麦をつくりパンをつくればいいじゃないと思うかもしれないが、ファンタジー世界である。同じ植物があったとして同様に「小麦」と呼ぶのか、こねて焼いたものをパンと呼ぶのか。このあたりの設定をそのままで行くなら、もはやファンタジーではなく、中世へのタイムスリップで良いのだ。

 たとえ小麦的なものをこねて焼いたものをマルと呼んだとしても、マルをパンみたいなものと紹介することはできない。この異世界にパンが無ければパンという概念がそもそも無いからだ。ニンジンのようなものも白菜のようなものも馬のようなものも寺のようなものも(どこからかは一般用語として線を引き使うことになるかもしれないが)、説明がとにかく難しい。このあたりを解決したのが、異世界転生ものだろう。我々と同じ世界の知識を持つ主人公のおかげで、説明が随分と楽になる。現在一大ブームが来ているのはこの接しやすさが大きいのだと思う。現在の中二病患者がどっぷりハマるのもよくわかる。


 では十二国記はどうなのか。異世界ものとはいえ、決して現実世界の知識に甘んじない確立された世界がそこにある。

文様のような十二国の地図。漢字一文字のところが国で、真ん中の黄海は陸地だが特別区と思っていただいて良い。   『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)より


 この世界には十二国を創造し、天綱を定めたとされる天帝が存在する。

 国が倒れたとき、地図中央の黄海にて麒麟が生まれる。麒麟が王を選び、以後ともに国を統治する。王は神籍に入るため不老不死となり、長く統治することができる。やがて王が道を誤り天命を失うと、麒麟は病にかかり国内は妖魔や自然現象によって国土が荒廃する。王が退位すれば麒麟は新しい王を選ぶが、そうでなければ麒麟は死に、同時に王自身も命を失う。

 またこの綺麗な十二国の国境を維持する所以は、王が軍を率いて他国に侵入すると王も麒麟も数日のうちに死ぬためだ。

 このようにこの世界には天帝と呼ばれる神がいて、天帝が定めた天綱という絶対の摂理がある。

 そして物語に大きく関わるのが「蝕」という現象だ。十二国の世界と異世界(蓬莱と呼ばれる日本、崑崙と呼ばれる中国)が嵐のような現象で、つながるのだ。蝕が起こると大災害となり、国土は荒れる。その際、十二国からまだ生まれていない命(十二国では子は木の果物のように成るのだ)が日本や中国へ流されることがある。その卵が女性の体内に宿り、その世界の人として暮らすことがある。逆に、日本や中国から蝕に巻き込まれて、十二国へ来てしまうこともある。


 十二国記を知らない人からしたら、もうこの時点で何のことかよくわからないかもしれない。もちろん本書を読めば少しずつ解説があり理解できる。

 私が言いたいのは、それくらい現実とは異なる設定を緻密に構築されているということである。宗教も政治も、国の成り立ちも出て来る地名も、すべて練り上げられている。『十二国記 30周年記念ガイドブック』を見て知ったが、著者は十二国記のマップも手作りで作っているらしい。街の場所だけでなく、山の高さを表す等高線を引き、街同士の距離を測り、どんな乗り物でどれくらいかかるか等、きちんと計算をしているのだ。ファンタジーをつくるというのはこういうことなのだろう。一生書けない気がしてきた。


 さて、いい加減タイトルにしている本書の内容に入りたい。

 十二国記は中華ファンタジーの群像劇だ。この巻では慶という国が中心だが、ある巻では戴であり、ある巻では雁だ。芳、恭、奏、才、漣、黄海を含め、あらゆるところで物語が展開する。そういう意味では、ある程度はどの巻から読んでも良いのかもしれない。だが、やはり初めの一冊は『月の影 影の海』だろう。様々な用語を解説しているのはこの巻だからだ。

 なお今更かもしれないが、私はネタバレ推進派だ。もしも読んだことが無く、これから読みたいと思っている人がいるなら、そしてネタバレが嫌な方はここで閉じてほしい。


 本書の主人公は中嶋陽子。成績は良いものの、女に勉学は必要ないという昭和な価値観の親のもと、ランクの低い近所の私立女子高校に通う。真面目で大人しい、と言えば聞こえがいいが、スクールカーストで言えば下から2番目。いじめられている子を庇えば次は自分がいじめられる、だから助けられない弱い人間だ。唯一、他の人と異なるのは、生まれつき髪が赤っぽいことだ。そのせいで、髪を染めているのではないか、大人しそうにしているが実は遊んでいるのではないかと先生に見られている。

 最近悪夢を見るせいで、思わず授業中に居眠りをしてしまう。そのことで職員室に呼び出され、謝って帰ろうとした矢先、彼がやってくる。

「……見つけた」
 声と一緒に微かに海の匂いがした。
 担任が不審そうに陽子の背後を見て、それで陽子も振り返る。
 陽子のうしろには若い男が立っていた。まったく見覚えのない顔だった。
「あなただ」
 男はまっすぐ陽子を見て言う。年は二十代後半といったところだろう。ぽかんとするくらい奇妙な男だった。裾の長い着物に似た服を着ている。能面のような顔に髪を膝裏に届くほど長く伸ばして、それだけでも尋常でなく奇妙だというのに、その髪がとってつけたように薄い金色をしている。

小野不由美『月の影 影の海(上) 十二国記』(2000年、講談社)26頁


不愛想な金髪にいちゃん。能面のような顔はとても良い表現。ずっとこうです。この方は。 『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)より 


 この奇妙な格好のにいちゃんのキャラ設定が良い。基本イイヤツなのだが、口ベタだ。これがもっと別な性格なら、陽子はあそこまで苦しまなかったのではとも思う。

 このにいちゃんは陽子の足下に膝をつき、深く頭を下げる。そして「どうか私とおいでください」と言ってくる。丁寧な人なのかと思いきや、職員室の先生たちには「あなたには関係がない」「あなた方もです。退りなさい」と居丈高な物言いをする。

 何コイツ、と思っていた矢先、どこからか声がする。「タイホ」「追っ手が。蹝けられていたようです」

 突然割れる、職員室の窓ガラス。にいちゃんが陽子の腕をとり走り出す。


こんな二人のシーン。以後絶対見れないなぁと、先を知る人は感慨深くなったりする。    『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)より 


 このシーン。異世界願望のある方ならワクワクするかもしれない。だが、陽子は人目につかず静かに暮らしたいタイプなのである。ただでさえ赤っぽい髪で遊んでる疑惑を持たれているのに、こんな金髪のにいちゃんと一緒にいたらさらにあらぬ疑いを持たれてしまう。

 陽子は何とか手を振りほどき、拒む。

「まったく、頑迷な」
 吐き捨てるように言ってから、男はいきなり膝をついた。反応する間も与えず陽子の足を摑まえる。
「ゴゼンヲハナレズチュウセイヲチカウトセイヤクスル」
 早口に言うやいなや、陽子を睨み据えた。
「許す、と」
「何なの」
「命が惜しくないのですか。――許す、とおっしゃい」
 語気荒く言われ、気圧されて陽子は思わず頷いていた。
「許す……」
 次いで男がとった行動は、陽子を呆然とさせるのに充分だった。
 一拍おいて、周囲から呆れたような声が上がる。
「お前ら!」
「何を考えてるんだ!」
 陽子はひたすら唖然としていた。この見ず知らずの男は頭を垂れて、摑まえた陽子の足の甲に額を当てたのだ。
「何を――」
 するの、と言いかけて陽子は言葉を途切らせた。
 立ち眩みがした。何かが自分の中を駆け抜けていって、それが一瞬、目の前を真っ暗にする。

小野不由美『月の影 影の海(上) 十二国記』(2000年、講談社)31-32頁


 ストーリーに入る前に、少しだけ十二国記の世界観について触れた。そこから想像がついているかもしれない。十二国は麒麟が王を選び、以後ともに国を統治する。物語の後半になりはじめて判明するのだが、この金髪のにいちゃんは慶国の麒麟であり、陽子は蝕によって流されこちらで育った十二国の住人であり、慶国の新たな王なのだ。

 開始32頁で行われるこの場面は、この物語の中で一番重要なシーンである。ここで王となることによって、多くのチートスキルが手に入る。金髪にいちゃんから剣を授かり、剣をふるうスキルを手に入れる。

 この後、十二国へ連れていかれ、事故により陽子はひとり未知の世界に投げ出されることになるのだが、役人に捕まり処刑されそうになり、親切な人に助けてもらったと思えば裏切られ、妖魔には狙われ、同じ日本から流されたという同胞に裏切られ、よくわからない幻のような猿におちょくられ、身も心も死んだ方がマシなんじゃないかと思えるくらいズタボロになる。

 本書は上下巻の2冊に分かれているが1冊はこんな調子である。どうか、はじめて読む人は何とか上巻で離脱せず、下巻を少しでも開いてほしい。上巻の最後に出会う「楽俊」との出会いが、彼女の運命を好転させていくのだ。


楽俊。ねずみ姿なのが良い。  『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)より   


 なお、この話は最初、ホワイトハートから出版されている。ホワイトハートと言えば、10代女性をターゲットとした少女小説、ボーイズラブ、ティーンズラブ、ミステリーなどがラインナップされている。
 こんなリアルハードモードな話は異色だったことと想像できる。当時はやはり編集者も悩んでいたらしい。著者、小野不由美のロングインタビューにそのことが書かれていたので引用する。

――いや……本当に。とにかく辛いことがずっとずっと続きますね。当時、もう少し前半に希望を出せないかとご相談したときに、小野さんは「いきなりまったく知らないところに連れていかれて、混乱して、剣を持たされて、戦わされ、裏切られ……それでそんなすぐにその環境を受け入れられはしないでしょう」と仰いましたね。この悲惨な物語を読者が受け止めてくれるか、当時は編集部には不安の声もありましたが……。

 もっともな心配ではあるんですけど。当時のジュニア小説では「こうじゃないと読者はわからないよ」とか「ついて来られないよ」というような”常識”がいっぱいあったんですよね。でも、私は本好きなので「それほんとかな」とずっと疑問に思っていました。夫の綾辻(行人)さんとか法月(綸太郎)くんとか、京大ミステリ研の人たちは小学校高学年くらいで東京創元社のクイーンなんかを読んでいるわけですよ。興味があれば、子供はどんな本でも読むし、分からなければ調べてでもついてくる、そういうものだと自分の皮膚感覚では思っています。もしついてこないのであれば、それは作品の書き方――興味を抱かせるような視点からの書き方ができていないからで、作品が難しいからではないはずだ、と。そういう意味で『月の影』の前半に関して、読者がついてくるかどうかの不安はありませんでした。自分で「面白いかな」というものを書けば、ついてきてくれる人はついてきてくれる、と思っていました。

『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)131-132頁 


 さすがプロの作家だ。この読者に媚びない姿勢こそが、中二病の私の側頭部をかち割る名作を生むのだ(それにしても作家夫婦って普段どんな日常を送るのだろう、とそっちにも興味がある)。


 作品のクライマックスでは、多くの経験を積んだ陽子が金髪にいちゃん=景麒(慶国の麒麟)に再会する。その時の会話が、作品前半の出会いの部分とは対照的で感動する。クラスで目立たないようにしていた女子高生が女王にふさわしい人格者に成長をしているのがわかる。


 この物語のラストシーンは前半32頁目にあった誓約が再現される。

「天命をもって主上にお迎えする」
首を垂れてその角を陽子の足に当てる。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申しあげる」
陽子は薄く微笑んだ。
「――許す」

小野不由美『月の影 影の海(下) 十二国記』(2000年、講談社)244頁


 最初は意味が分からず「ゴゼンヲハナレズチュウセイヲチカウトセイヤクスル」とカタカナ表記だった部分である。王として、やっていけるかという葛藤を抱えながら、それでも進もうという意志を引用部のラスト2行で感じる。


王となった陽子。かっこいい。というか、山田章博さんの絵がほんとに良い世界観を演出している。     『「十二国記」30周年記念ガイドブック』(2022年、新潮社)より 


 ただの女子高生が一国の王になるのだ。この後も陽子は多くの難局を迎える。

 現実世界ですらドロップアウトしそうになっている人間が、チートスキルを持って異世界へ行ったとしても、リアルに考えればイージーモードにはなり得ないのだ。

 異世界妄想から現実に戻れない方は、是非本書をお取りいただき、文庫で両頬を叩き、目を覚ましていただければ幸いである。



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