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殺生問題(せっしょうもんだい)

「もうじきたべられるぼく」という本が、未来屋えほん大賞を受賞したという広告を新聞で見た。子牛の物語らしい。
 
私は昔から殺生問題を考えているが、これという納得できる解答はなかなか見つからない。
 
いろんな人にこの問題を尋ねるが、しっくりした回答はない。よくあるのが、感謝していただくというのがある。果たして動物たちは感謝されれば喜んで命を捧げてくれるのだろうか? ありえない。人間のエゴの論理だろう。金子みすゞの「大漁」という詩にもある。「朝焼け小焼けだ 大漁だ 大羽鰯(おおばいわし)の大漁だ。浜は祭りのようだけど 海のなかでは何万の 鰯(いわし)のとむらいするだろう。」 生き物にもみんな家族がいたのだ。

 動物さんの分まで頑張って生きていこう、というのもある。大きなお世話だ。動物は自分自身が生きたかったのだ。

ほかには、人間は食物連鎖の頂点にいるからしかたがないというのもある。ならばクマに食べられても文句が言えないことになる。
 
私はこの質問を高名な講師の講演会のとき手をあげてよく聞く。なかにはとまどって後ろずさりし、えーっとうーっと言って、当たり障りのない回答をする人もいる。こんな大事な問題に対して自分の考えを持たれていないことに驚く。
 
今から30年も前になると思うが、当時日本ペンクラブ会長であった哲学者の梅原猛(うめはらたけし)先生が、有明海の干潟事業に関連してムツゴロウの保護という論陣を朝日新聞で張られていた。私は当時から殺生問題に関心を持っていたので、朝日新聞を通して梅原先生に質問状を送った。「先生は刺身とか肉とか食べられないのですか。大阪や東京でも大規模な埋め立て事業がなされ、その近代的な恩恵を私たちは受けている。その埋め立てでどれだけ多くの生き物が死んでいったか。ムツゴロウだけをなぜ擁護されるのですか。」みたいな質問状だった。無論返事はなかった。
 
殺生問題について多分哲学ではなんらかの解答があるだろうと思って調べてみたが、私が調べた範囲ではなかった。宗教ではもちろん個々の考えが確立されている。つまりこの問題はそのくらい難しいということだ。
 
私は私なりに一応考えを持っている。しかしそれは積極的な考えではなく、どちらかというと投げやりな、消極的な解答だ。それは、「人間は生まれながらにして十字架を背負っている(つまり生き物を食べていかなければならない)。ということは私たちはどんな死に方をしても文句は言えない。災害で死のうと、事故で死のうと、病気で死のうと、すべて受け入れなければならない。恨みつらみを言う資格はない。」
 
私はある人と会話したとき、その人の大事な友人が海の漁で亡くなって家族が大変つらい思いをしているという話を聞いた。同情はもちろんしたが、私は上の考え方で「どんな死に方をしても文句は言えない」というようなことを言ったら、その人は憤慨してその後絶交になった。
 
この問題で私が唯一「なるほど」と思った回答をしていただいた先生がいた。西部邁(にしべすすむ)先生である。ある講演会の後の懇親会でこの質問を例によって先生にぶつけた。先生はびっくりされたような顔をして、「あなたは僧侶ですか」と聞かれた。いや違いますと答えたら、先生は数秒考えて次のような回答をされた。「うーん、それは僕たちが今までしてきた言動や歴史に責任を持って生きていくということじゃないかな」と。私はさすが知の巨人の先生の回答だと思った。唯一、納得している。(西部先生、合掌)
 
しかし今も殺生問題は私の中でくすぶっている。わたしはもちろん肉や魚が大好きな人間だ。宇宙の問題と殺生問題はおそらく死ぬまで解答を得られない。

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