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作曲家だって、視覚に依存してますよ

作曲を経験したことがない人と会話をしていて、たまに「見えないものを作るって、すごいね」と言われることがあるんです。


確かに、絵画は見えます。ピンポイントで「特にこの部分が好き」と、作品を指差しながら他の人に感想を言えます。

文学ぶんがくも見えます。小説や詩歌しいかは言葉による芸術であるため、他の非言語系の作品と比べても圧倒的に分かりやすく、鑑賞に必要な基礎知識云々を気にすることなく、ある程度の読解力さえあれば誰でも楽しめる、という強みがあります。

そして、彫刻はさわれます。3次元ならではの抜群の臨場感。今にも動き出すんじゃないか、と思わせるほどの生命力まで伝わってくる、その存在感。


それらと比べて、なるほど音楽は「見えないし触れない」から、分かりにくいし、曖昧で抽象的

もし歌詞がついていたら、音楽経験の薄い多くの人はそっちに気を取られて、歌詞が評価基準のメインになってしまって、
和音の選び方とか、楽器の割り当て方とか、そういう作曲者がこだわっているポイントに対する情報解像度が低くなるのではないか、と。

そして、これほど理解の難しい音楽を作れる人って、ホントに生まれながらの天才なんじゃないか、...みたいなことを言われたことがあるのですが。


生み出しているものは、もちろん聴覚のアートではあるんだけど、

僕は思うんです。
「結局、作る側はめっちゃ視覚に頼ってんじゃん」と。


まず、楽譜。
横軸が時間の進みで、縦軸がピッチ(音の高さ)。
やっていることは数学の座標平面と同じ。デカルトが座標を発明したのが17世紀前半、それと比べて、グレゴリオ聖歌の記譜法としてネウマ譜が普及しだしたのが10世紀。
こうして考えると、過去の音楽家たちはけっこう先進的な発想力を持っていたんじゃないか、なんて妄想しちゃいます。

「クラシック音楽」という言葉の定義は非常に難しく、人によってそのイメージは驚くほどバラバラですが、狭義には(だいたいの人が想像するヤツ)、17~19世紀あたりの西洋古典的な芸術音楽だと思うのです。
そして、そのあたりの作品は、お馴染み「五線譜」を用いて記譜が行われています。音大で勉強するのは普通このへんなので(私立だとジャズやポップスの専攻もありますが)、作曲するのも演奏するのも、五線譜とセットになって染みついています

本来、音に関する作品を生み出すことは、全て「作曲」としてカウントして良いはずです。なんなら、僕は「人間の朗読」も純粋な聴覚芸術だと本気で思っています。
しかし、僕らはしばしば「作曲すること」と「楽譜を書くこと」を混同してしまうのです。その理由の1つは、楽譜は音楽の内容が詳しく見えるから、便利すぎて手放せなくなっているんです。

記譜法とは「聴覚芸術を可視化するにはどうすればよいのか」という、紀元前より続いてきた人類の模索が積み重なった、文化の集大成なんです。
この世界で最高峰の「音楽のビジュアライズ」、
その有能さといったら、もう。
現代社会とYouTubeの関係と同じレベルで、作曲と記譜はなかなか切り離せません。


楽譜だけではありません。
「楽器の見た目」も重要な視覚要素です。
楽器屋の電子ピアノコーナーで、ピアノの未経験者はよく「ねぇねぇ、どこが “ド” なの?」と言います。...以前、ヴァイオリンでも同じことを言われました(ちなみにヴァイオリンの場合は、開放弦のレやラのほうがずっと簡単)。

そう。
「どこ」って言っているんです。

楽器を演奏することと「鍵盤の位置を暗記する」ことは別なのに、わりと一体化している人が多いようです。同じ演奏でも、カラオケで歌う時にはそんなこと気にしないはずなのに(←と言う僕はずっと音程グラフにかじりついてしまうので失格)。


小学校でも、クラスのみんなでリコーダーを演奏するけれど、シは “これ” 、ラは “これ” というふうに「穴の押さえ方を覚える」ことがメインになってしまうから、そういった経験由来のバイアスなのかもしれません(とはいえ、その行程は必須だからなかなか難しいところ)。


極め付けは、趣味でギターをやっている人の場合です。
「俺、コードわかるよ〜」と言っている人のうち、音楽理論としてのコードネーム(和音1つひとつに割り当てられた固有の名称)を深く熟知しているのは果たしてどれほどの割合なのでしょう。

多くは、あるコードを演奏するための、それに対応するローコードまたはハイコードの「左手の運指」を覚えているだけです。
本当に何も知らない人もいて、僕が「コードネームって、本質的にはギターの “指の押さえ方” とか “手のかたち” を意味しているわけではないよ」と言うと、相手はビックリして「えっ、じゃあ何なの?自分がこれまで “コードネーム” だと信じていたモノは、いったい...」、みたいなことも過去に数回。

もちろん、その人は楽しく弾いているだけだし、どのレベルを目標にしているかは人それぞれだし、こちらから専門的なことを無理やり押し付けてはいけないんですが、とりあえず、ギターの世界では弾けること=左手を覚えること、という認識がわりと広い気がしています。


さて、僕が1人で勝手に白熱して文章が長くなってきましたが、ここまでを要約すると、
作曲においても視覚的な情報、とりわけ “楽譜” と “楽器の見た目” の2つに依存して創作に取り組んでいることがほとんどで、「聴覚のみ」を作っている感じはしない、ということ。


音大に在籍している今。
基本的な楽譜の書き方は分かっているし、作曲を始める=五線紙を用意する、というふうにスタートが固定化されたからこそ、わざと「最初から五線紙を使うのはダメ」というルールにしてみるのもアリだと思いました。
特に僕の場合、ついつい楽譜の書き方に気を取られて、肝心の「想定される実際の音イメージ」がないがしろになることが多かったからです。 (完)

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