誰を笑顔にしたいんか?
「何を仕事にしたいかは誰を笑顔にしたいかで考えな。」
最近友に言われた言葉だ。
曖昧な将来像しか持たない私は自問自答を繰り返す。
私が笑顔にしたいのは、子ども。
私が笑顔にしたいのは、先生。
私が笑顔にしたいのは、親。
私が笑顔にしたいのは、家族。
パッと思いついたのは、ここだった。
じゃあ、子どもに関わるなら教育?
どんな子ども?
貧しい子ども?
いじめられている子ども?
親の愛を十分に受けられなかった子ども?
勉強が好きなのに高度な勉強ができる環境がない子ども?
私がパッと浮かんだのは、言い方が悪くなってしまうが弱者側の子どもたちだった。
マイナススタートの子どもをゼロに、フラットにしたい想いがある。
育った環境のマイナスをプラスに大逆転するチャンスすら与えられないのは、歯痒い。
ただ、最近授業で聞いてハッとさせられた。
授業では、小学四年生の段階で学力差から大学進学コース、職業訓練コースに分けられるドイツの教育制度を習った。大学進学コースに進んで、高校生の段階で日本の大学院試験のレベルの論述問題を解き、難関の大学進学を認められるのは、人口の3〜4割だという。
そこまで幼い段階の学力でコースを分けてしまうことは、結局家庭が太い子どもが有利で、経済力を背景とした学力格差が縮まらない。前近代のような、貴族はずっと貴族、平民は平民のままという階級社会の再生産が進むのではないかと議論がされている。
ただ教授が言ったのは、民主主義社会において、大学院の問題のような答えのない問題に立ち向かっていく思考力と長時間悩むことのできる忍耐力をつけた、優秀な政治を引っ張っていく層を、確実に育てていくことが重要なのではないか、という意見だった。
それを聞いて、教育をなぜ大切だと考えているのか、そう考えたきっかけはなんだったのかを思い出し、ハッとした。
高校生の時、大好きな世界史の勉強をしながら塾の自習室で、「なぜアフリカはヨーロッパにボロ負けして今に尾を引いているのか。」を拙い知識で考えた。
戦争に負ける→武器の生産力と性能の差/新しい世界の進出欲→資源から武器を作る能力の差/知的好奇心が高い→頭の良さ→教育
という理論構築で、「私はすべての根幹は教育にある。」とたどり着いた。誰から言われたわけでもない教育の重要さの気づきのおかげで、私はそこから5年以上教育と向き合えてきたわけだ。
ただこの支えとなった理論は、「国力の強化」に集約されている。この国に貢献する賢い人が減っていけば、極端に言うがこの国の皆が飢えていく可能性がある、それを危惧する。私の教育への気づきのきっかけに忠実になるならば、優秀な知能が高い子供の知的好奇心に合わせた教育、賢い子供、強者を伸ばすための教育が根本にやりたいことと言えるのではないか。
教育に関しては公教育や国やNPO寄りなのかと思っていたが、実は根本は私立教育、教育系企業向きなのだろうか。
おそらく弱い人にに心を寄せてしまうのは、人生一番死にたいを連呼した日々、一斉ハミゴの経験が、心の奥底でずっと尾を引いているからなのだろう。
私は大勢の人の人生全てを変えるほどの力を持つとは到底思えない。
それでも、子どもが辛いと感じている時、その人生の一瞬を笑顔にしたり、その一瞬だけでも辛いことを忘れることができるような、子どもの人生の刹那的な一瞬を救えるような、そんな仕事をしたい。
そんな作品を生み出したい。
就活は、子どもに繋がることを軸に据えてようと、今日の投稿の中言語化することではっきりした。
大功績。